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9月, 2022の投稿を表示しています

寝坊しませんように

  はじめまして 22 照明です。締切に追われるどころか締切を追い越しながら作業場日誌を書いていたら ( 謝罪 ) 、文章が今日中に書き終わる目処が立たない方向性に行ってしまい、悲嘆にくれながら最初から書き直しています。とりあえず書けることを書いてお茶を濁していきましょう。   今回のテーマは " さいわい " だそうです。演劇における " さいわい " とは、無事公演を上演できることだと思います。災害や感染症、不慮の事故などにより、それまで数ヶ月間、あるいは数年間様々な人が協力して準備してきた公演が中止になってしまうことはままあります。どうしても観たかった公演が中止になったこともありますし、自分自身が関わった公演が中止になったこともあります。公演を無事打てることは決して当然のものではなく、全ての公演が無事終わった時につく溜息には、安堵だけではなく、そのさいわいを噛み締める部分もある気がします。   また、照明における " さいわい " とは、上演中の全ての場面で正しいタイミングで問題なく灯りがつくことでしょうか。そしてこれもいつも上手くいくとは限りません。機材の不調もありますし、スタッフ側のミスもあります。特に機材の不調などはどれだけ入念に準備をしてもゼロにはならないものなので、後はもう上演中に何事もないよう祈るしかありません。   今は一にも二にもつつがなく公演が終わるよう祈っています。カーテンコールの先にさいわいがありますように。

素晴らしい世界に祝福を。

 はじめまして。 22 の宣伝美術です。ご覧頂きまして、ありがとうございます!   自分にとってのさいわいとは、というテーマで書かせて頂きます。   さて、大学生になって、さいわい(幸せ)を感じられることが多くなりました。   それは精神的圧迫が取り除かれたという環境の変化もあるけれど、自分自身がいろいろなものに感謝できるようになったからというのが大きくて。   毎日ご飯を作ってくれているお母さんに感謝。   安全に大学まで運び届けてくれる電車の運転手さんに感謝。   毎日話す友達に感謝。   毎日私を癒してくれるにゃんこに感謝。   この世の物全てが愛おしくて、優しく接してくれているような感じがします。   もちろん、世の中不条理なこと、目を背けたくなるようなこと、沢山あります。それこそ、私の酷い偏見ですが、人間の醜い部分を魅せる演劇の世界において敬遠され、綺麗事だって怒られてしまうかもしれません。考え方がまだまだ子どもで、みんな楽しければいいんじゃね? (  ᐛ  ) パァという性格なので、こういう考え方の人もいるんだというふうに流して下さい。   ですが、そういった当たり前の日常のことでも、自意識過剰なまでに感謝することで、さいわいを感じやすくなりました。当たり前に生きられていることこそ最大のさいわい。物事は捉えようです。   キャパってる時はそんなことを考えている暇はないけれど、ふとしたときストンと自分の中でうまい具合におちる。その瞬間、さいわいであることに気づくんです。   随分偉そうなこと書きましたけど、感謝することは、今では一番大切にしていることです。   話が少し変わりますが、私は宣美に所属しているというのもあり、自分が関わった作品や事によって、知人や見ず知らずの人に何かしらの影響を与えたい、できれば良い方向の、さいわい(満足)を届けたいと思っています。   公演が行われる駒場小空間まで足を運んで下さった方に恩返し、のつもりで自分の中にある想像、アイデア、イデオロギーを凝縮させて一つのものにする。それが他人にさいわいを提供するのって本当に素晴らしい事だと思うんです。   プリズムに所属して約半年経ちます。活動するにあたって、プリズムのみんなは、同期はもちろん先輩方も含めて、ああ、この仲間たちと出会えて、演劇ができて本当によかったって満ち足りた気持ち

タイトルは思いつきませんでした

初めましての方は初めまして。そうでない方はこんにちは。 21 の制作のものです。家族構成は父・母・兄・私・亀。末っ子兼長女ということだけでも覚えて帰ってください。   さて,今回の作業場日誌のテーマは「さいわい」ということで,まずこのテーマに触れるにあたって「さいわいってなんだろ〜しあわせとなんか違うんかな〜」と思いました。そこで私は全知全能の神こと Speech Interpretation and Recognition Interface ,通称「 Siri 」に聞いてみようと思い,手持ちのスマートフォンのホームボタンを強く押しました。     私「さいわい」   Siri 「聞き取れませんでした。もう一度おっしゃっていただけますか。」   私「 ( ´・ω・` ) 」     諦めました。     なんか「さいわい」って「しあわせ」と比べてなんか身近な感じしません?「○○していただけるとさいわいです」ってよく言いますけど,その○○の部分って大体そんなに難しいことじゃないし。アンケートの回答とかじゃんここに入るのって。「アンケートに回答していただけると幸せです」とかいわれたら「お,おう…」ってなっちゃいますね。逆に幸せは大層なものな気がします。世界平和的な。そして手が届きにくい。   「しあわせ」は遠く,「さいわい」は近い,と考えるとなんかしっくりくるような来ないような来ないような。あ、なんか違う気がしてきた。うん違う。まあなんだっていいんです。幸せだろうが幸いだろうがいいものであることには何も変わらないし。言葉による違いなんてもんは私よりもっと詳しい人たちが考えてくれます。   ごちゃごちゃと話しましたが,まあ何を言いたいかっていうと,「幸は近くにも遠くにもあるもんよ」ということです(本当か?)。大金持ちだの玉の輿だのでっけー夢を持つのもよいとは思うけど,自分の今いる場所の小さなさいわいを見落としちゃ損ですよ。これを読んでいる愛すべき人類の皆様,「今日友達と話し馬鹿盛り上がったな」とか,「今日の昼食べたラーメン当たりだったな」とか,そんな小さな幸せ,さいわいを寝る前にでも振り返ってみてはいかがでしょう。もしかしたら,ちょっとだけ生きるのが楽しくなるかもしれませんよ

猫はさいわい

小道具 22 です。   本文章は、『作業場日誌、できれば 22 で書きたい人いませんか?』という小道具セクションチーフからの呼びかけに、すぐに「書きたい!」と返すのが何故か躊躇われ無駄に返事を寝かせた、卑しみ満載の人間によって書かれております。 今回のテーマは『さいわい』 …… 抽象なものの中でも中々に抽象です。さいわいとは?幸福?幸せ?幸運?どれだ? まあ深く考えるのはやめて、せっかくセクション別に書いているんだし、どうせならそれを生かす内容を書きましょう。 小道具は、使用したい小道具に対して借りる・買う・作るのいずれかの方法でアプローチします。 今回使用する小道具、仮に小道具Aとしましょう。小道具Aは、一般生活をするに当たって、まず手に入れることがないものです。つまり、絶対に買わないといけなかったんですね。馴染みの無いもの故相場も知らなかったわけですが、それが案外安かったのはさいわいでした。 というのも、別の小道具、同様に仮に小道具Bとすると、これは割と身近なものだったので、誰かから借られるかななんて考えていたのですが、実際は誰も持っておらず、その上中々値が張るもので。 小道具Aが安かったことで、小道具Bにしっかり予算を回すことができたわけです。 あとそうそう。更に別の小道具の方は、人から借りられたのもさいわいでした。誰も持っていなかったら、その小道具の担当者の自分が作ることになっていたわけですが、調べた限り、中 々に煩雑な工程を経なければ作れないものだったので。 こんなもんで終わろうと思っていたら、衣装の作業場日誌担当者からもっと書けよと言われました。 でも、セクション関連はこんなもんです。 なので、他の人たちの内容に則って、個人のさいわいネタを書いて終わろうと思います。 そもそも、今こんな文章を書いているということは、ずっとしたかった演劇ができる環境に自分がいるということを表しているに他なりません。 では、サークル活動ができているのはというと、それは潰えかけたのを一代上が耐えてくれたからで。 じゃあ、サークルに入れたのはというと、大学に入れたからであって。それは親の財力と共通テストの数学激難化のおかげです。 思い返せば中高時代だって、後輩の力で試合に勝ったり、二つ上の先輩が部活を立ち上げてくれたり、コロナ禍になっても先生たちが変則的な形で学校行事をできるよ

山のあなたの空遠く

文章を書くときに、よく「幸いにも〜」や「〜してもらえると幸いです」といった定型句を使ってしまいます。こんにちは 21 映像です。例によって例の如く締め切りを大幅に超過して焦りながらこの日誌を書いています。いつも関係者の皆様にはご迷惑をおかけしていて申し訳ありません。   さて。今回のテーマはさいわいとのことですが ( ひらがな表記なのがまたいいですよね ) 、まずは私が思う幸せの定義についてお話ししたいと思います。 こうやって書くと宗教勧誘感がものすごいですね。まあ普段幸せとかさいわいについてなんて人と喋りませんし……? 考えてみればこの日誌のおかげで普段話さないことを合法的に語れるし、他の人の語りも思う存分聞けるわけです。ありがたいことです。    閑話休題。私は幸せというのは「その人がそう感じたら」全てそうなのではないかな、と思っています。言い換えれば、どんな状況であったとしても、世界で一人くらいはそれを幸せと思う人がいるんじゃないかな、と願っています。あと、幸せの基準を自分の心持ち以外にすると、いつかその時思ったことを蔑ろにすることがありそうで嫌なんですよね。世界の誰が否定しても、私だけは私の気持ちの味方でありたいというか。 だからたまに幸せになりたい〜って言ってる人を見かけますけど、正直なりたいのならなったらいいじゃんと思ったりもします。周りが何も変わらなくたって、見る目をほんのちょっとずらしてやるだけで、たちまち世界は輝き出すし毎日幸せになれるんです。結構なことじゃあないですか。       …………ここで終われればよかったんでしょうが。   大学で知り合った人と色々なことをする中で、きっとこの人は私の幸せの定義が好きではないのだろうな、と思うことがままありました。彼らは傷を抱え幸せになりたいと始終叫びながらも、傷から目を背けることは良しとしないようでした。私はそれを見てどうしてこんな簡単なことをしないのだろうと歯痒く不思議に思いましたが、それと同時にとても眩しく思いました。 自分の価値観に対して誠実で、誇り高いとでも言うのでしょうか。きっとそれは私が常に幸せであるために放ってきたものだからです。   さいわいのイメージについて。 私はこの言葉は

日誌の内容、テーマから脱線して良いと伺ったのですが、、、

 はじめまして、22の音響員です。私は作業場日誌を書くのが初めてで、また自称真面目なのでこういう時にどんなことをどういう風に書いたら良いのかをまず知りたくなるのですが、21の仕事の早い素晴らしい先輩にテーマなんか気にせず自由に書いていいと 悪知恵 アドバイスを頂いたので、一応今回のテーマである「さいわい」から連想したことを自由に書いていこうかなと思っています。ぱちぱちぱち。(正直何を書けばいいんだ何を書けばいいんだ・・・と書いていれば字数は埋まるのではないかと思ったこともあるのですが、)今回は盛大に自分語りをしようと思っています。 音楽  私が「さいわい」について何を書こうと考えていた時に2番目に思いついたのが音響のことでした。そういえばこれ作業場日誌で、各セクションの作業について書くという名目だったな...と。1番目に思いついたのは私の住むまちについてなのですが、あまり書くことがないのと個人情報なので控えます。  私の人生の中で音楽に関わる機会は多く、また何度か音楽に救われる経験もしてきました。勇気付けられたり、曲に感情移入してストレス発散したり。私が辛いとき、大袈裟ですがこの曲を聴く(歌う)ために生きておこうと思ったことや、曲に慰められたこともありました。そしていつからか、音楽は楽しい、また音楽を楽しんでいる歌手たちを見ていて、多くの人にとってもそういうものだろうと思うようになっていました。  ですが、またある時、Eテレでアニメの『聲の形』が放送されていたのを録画したのを見ました。割と前に見たので記憶が曖昧なところもあるのですが、私の記憶上、作品の中で聴覚に障がいのある人が小学生の頃、学校の合唱コンクールの練習に参加し、『怪獣のバラード』という曲を皆で歌ってみるもなかなか難しく、またクラスメートとも馴染めなかった様子が描かれていました。その後も作中で『怪獣のバラード』は割と不穏な空気を演出するものとして使われていました。  私の中でその曲は、中学1年生のときに合唱コンでみんなで歌ったなぁという割と良い思い出に美化されていたので、作品も演出も面白いけれど、個人的にはあまりそういう風には使ってほしくないと思いながら見ていました。 でも、観終わって、耳が聞こえない人、または聞こえにくい人にとっては合唱コンのような音楽に触れる機会が楽しいものではない(聞こえても楽しくな

とびきりの「さいわい」を!

はじめまして。本日の作業場日誌は 22web が担当いたします。 テーマは「さいわい」と設定されているそうです。初めて担当する作業場日誌なので、どんなことを書いたらいいのだろうと過去の作業場日誌を覗いてきたのですが、あまり方向性がつかめずそわそわしております。 さて、私にはとっても素敵な友人がいます。彼女はいつもできる限り他者に対してネガティブな言葉を使わないようにとか相手の心に傷をつけない言葉遣いなんかを心がけていて、彼女と過ごすとき私はいつも穏やかな気持ちで居られました。 そんな彼女との付き合いも 6 年をこえ、気づかぬうちに私の性格の角をちょちょいと落としておいてくれたようです。 最近の私は頻繁に「ハッピ〜」と呟いてにこにこしているようです。昔の私はとげとげしていて目に入るもの全部にイライラしている時期もあったのに、です。 たまたま入ったカフェで好きなアーティストの音楽が流れていたとか、学内であまり出くわすことのない他学科の友達に久しぶりに遭遇したとか、ここ最近ずっと暑かったけど今朝はなんだか涼やかな風が吹いているとか。「ハッピ〜」は日常の端々に訪れます。そういうちょっとした「さいわい」にも目を向けられるようになったのは、きっと彼女のおかげです。 ただ一方でネガティブな気持ちに嘘をつくことはないというのも最近わかってきたことです。 世界が暑すぎるとか電車が遅れて乗り継ぎがうまく行かなかったとか、人間関係の些細なストレスとか。ネガティブが大きければ大きいほど言葉に出すのが良くないことのように思われますが、同時に我慢してると自分の中にネガティブが溜まって足取りが重くなる感覚があります。 ネガティブも適度に吐き出して、きちんと自分の中をクリーンに保っておきたいと感じます。悪口にならない程度にうまく吐き出す能力を身に着けたいですね。 ネガティブを吐き出すようなことが起きないのが一番なのかしら、とも考えましたが、嫌なことがなければ日常のちょっとした「さいわい」にも気がつけなくなっていくと思うのです。 「さいわい」でないことがあってこそのとびきりの「さいわい」、いつでもめいっぱい受け取ることができるよう、たくさんの経験を積んでいろいろな感情を知っておきたいです。 みなさまにもとびきりの「さいわい」が訪れますように。

人に言いたいこととか無かった

こんにちは、22衣装です。自分の信条的に人を待つ時間が多いので、今もその時間を使ってのんびり日誌を書いています。誰もいない朝ほど落ち着くものもないですよね。そういえば最近すずめを見ないですね。 今回与えられた作業場日誌のテーマは「さいわい」です。さいわいってなんですかね。どういう意味なんですかね。どういう意味ですか?辞書はお呼びでないですが。良いものであるような気はするんですけど…。「良い」なんて相対的なものですし、さいわいを感じる時、それと同時になにか良くないものの存在を認識していることになりますね。もし世界から良くないことが消えたら、良いこともなくなっちゃうかも。え、つまんな。そこにさいわいはあるのでしょうか。 ここで私の人生観の話になりますが、私は悲しいことや辛いことはわりとあっても良いと思っています。人生をグラフで表すなら、たぶん良いこと(?)が正で悪いこと(?)が負の三角関数みたいになると思いますが(私は生まれた瞬間を0と定義したい。)その波が多ければ多いほど、大きければ大きいほど、幸せな人生だと思っています。寿命が縮まるような衝撃をたくさん受けながら緩急のある人生を生きていきたいものです。感情が相対的なものである以上、負の感情を味わってからでないと正の感情も薄まっちゃうんですよね。甘いものとしょっぱいものを交互に食べると飽きずに美味しく食べられるのと同じです。 さらに脱線するのですが、わりとみんな同じ場面で同じような感情になるのって怖くないですか。私は、感情は経験から呼び起こされるものだと思っている派です。友達からプレゼントをもらって嬉しいと感じるのは、状況を細分化して要素ごとに過去の経験と照らしあわせて、総合的にみて今回も嬉しいだろうと脳が勝手に判断してるんだと思います。ですから一番最初は誰かに教わらないといけないわけなんですよ。命に関わる感情は本能的に身に付いてると仮定すると最初の感情は恐怖でしょうね。恐怖を感じることができるのは恐怖を感じない時間があるからで、最初は0だったものが、恐怖という負の値を得ることで相対的に正の値になり「安心」という感情が芽生えるのではないでしょうか。そこで同時に感情の相対性を学ぶんだと思いますね。この前大学の講義で胎児のころから食の好みが形成されはじめるということを聞きました。好き、嫌いという感情は好きな味を感じる、嫌い