山のあなたの空遠く

文章を書くときに、よく「幸いにも〜」や「〜してもらえると幸いです」といった定型句を使ってしまいます。こんにちは21映像です。例によって例の如く締め切りを大幅に超過して焦りながらこの日誌を書いています。いつも関係者の皆様にはご迷惑をおかけしていて申し訳ありません。

 

さて。今回のテーマはさいわいとのことですが(ひらがな表記なのがまたいいですよね)、まずは私が思う幸せの定義についてお話ししたいと思います。

こうやって書くと宗教勧誘感がものすごいですね。まあ普段幸せとかさいわいについてなんて人と喋りませんし……? 考えてみればこの日誌のおかげで普段話さないことを合法的に語れるし、他の人の語りも思う存分聞けるわけです。ありがたいことです。 

 

閑話休題。私は幸せというのは「その人がそう感じたら」全てそうなのではないかな、と思っています。言い換えれば、どんな状況であったとしても、世界で一人くらいはそれを幸せと思う人がいるんじゃないかな、と願っています。あと、幸せの基準を自分の心持ち以外にすると、いつかその時思ったことを蔑ろにすることがありそうで嫌なんですよね。世界の誰が否定しても、私だけは私の気持ちの味方でありたいというか。

だからたまに幸せになりたい〜って言ってる人を見かけますけど、正直なりたいのならなったらいいじゃんと思ったりもします。周りが何も変わらなくたって、見る目をほんのちょっとずらしてやるだけで、たちまち世界は輝き出すし毎日幸せになれるんです。結構なことじゃあないですか。

 

 

 

…………ここで終われればよかったんでしょうが。

 

大学で知り合った人と色々なことをする中で、きっとこの人は私の幸せの定義が好きではないのだろうな、と思うことがままありました。彼らは傷を抱え幸せになりたいと始終叫びながらも、傷から目を背けることは良しとしないようでした。私はそれを見てどうしてこんな簡単なことをしないのだろうと歯痒く不思議に思いましたが、それと同時にとても眩しく思いました。 自分の価値観に対して誠実で、誇り高いとでも言うのでしょうか。きっとそれは私が常に幸せであるために放ってきたものだからです。

 

さいわいのイメージについて。 私はこの言葉は、定型句以外では宮澤賢治の銀河鉄道の夜と、カール・ブッセの山のあなたくらいでしか見た覚えがありません。(というかパッと思い付きませんでした。)だからでしょうか、少し物寂しいというか、痛みを伴うイメージがあります。 ですから前述したような人が求めているのはしあわせというよりさいわいに思えます。

 

そしてもう一つ。さいわいは、しあわせでない者が探し求めて見つける、という前提があるように感じられます。もしそうならば、いついかなる時もしあわせであるように自分を調節してきた私は、さいわいを見つけることはありませんしその必要もないのでしょう。

 

今の私からすると、それは今のしあわせを捨ててまで得たいものではありませんが。もしそんな時が将来あるならば、それはこのお話においてのさいわいかもしれません。

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