人に言いたいこととか無かった

こんにちは、22衣装です。自分の信条的に人を待つ時間が多いので、今もその時間を使ってのんびり日誌を書いています。誰もいない朝ほど落ち着くものもないですよね。そういえば最近すずめを見ないですね。
今回与えられた作業場日誌のテーマは「さいわい」です。さいわいってなんですかね。どういう意味なんですかね。どういう意味ですか?辞書はお呼びでないですが。良いものであるような気はするんですけど…。「良い」なんて相対的なものですし、さいわいを感じる時、それと同時になにか良くないものの存在を認識していることになりますね。もし世界から良くないことが消えたら、良いこともなくなっちゃうかも。え、つまんな。そこにさいわいはあるのでしょうか。
ここで私の人生観の話になりますが、私は悲しいことや辛いことはわりとあっても良いと思っています。人生をグラフで表すなら、たぶん良いこと(?)が正で悪いこと(?)が負の三角関数みたいになると思いますが(私は生まれた瞬間を0と定義したい。)その波が多ければ多いほど、大きければ大きいほど、幸せな人生だと思っています。寿命が縮まるような衝撃をたくさん受けながら緩急のある人生を生きていきたいものです。感情が相対的なものである以上、負の感情を味わってからでないと正の感情も薄まっちゃうんですよね。甘いものとしょっぱいものを交互に食べると飽きずに美味しく食べられるのと同じです。
さらに脱線するのですが、わりとみんな同じ場面で同じような感情になるのって怖くないですか。私は、感情は経験から呼び起こされるものだと思っている派です。友達からプレゼントをもらって嬉しいと感じるのは、状況を細分化して要素ごとに過去の経験と照らしあわせて、総合的にみて今回も嬉しいだろうと脳が勝手に判断してるんだと思います。ですから一番最初は誰かに教わらないといけないわけなんですよ。命に関わる感情は本能的に身に付いてると仮定すると最初の感情は恐怖でしょうね。恐怖を感じることができるのは恐怖を感じない時間があるからで、最初は0だったものが、恐怖という負の値を得ることで相対的に正の値になり「安心」という感情が芽生えるのではないでしょうか。そこで同時に感情の相対性を学ぶんだと思いますね。この前大学の講義で胎児のころから食の好みが形成されはじめるということを聞きました。好き、嫌いという感情は好きな味を感じる、嫌いな味を感じるという経験からスタートかと。好きな味を感じる食べ物を食べさせてもらっている時親が笑顔であれば、笑顔→好きなもの、のような思考回路ができてもおかしくないですよね。そこからはきっと、好きという感情は親が笑顔で行う行動にどんどん結び付いていくと思います。あとは、絵本を読んだりアニメを見て、他人の経験から感情を学ぶこともありそうです。「くまくんはうさぎちゃんがないているのをみてとてもかなしくなりました。」とか書いてあったらもう洗脳ですね。(マジョリティをつくるのはやめましょう。)いったいどこまでが他人の真似でどこからが自分なのでしょうか。自分を見失うという経験はかなり多くの人がもっていると思います。脳ミソがハッピーな私の理論でいくとそれは、他人につくられた根底が自分のつくりはじめたものによって揺らいでつじつまが合わなくなってきている、自分を見失っているように見えて実は他人と自分の境目を認識し始めたということになります。てことは見失った部分は自分の好きなように書き換えてしまえばいいんですね。見失えば見失うほど自分になっていくなんて、すごい良い理論だなぁ。
「さいわい」の話に戻ります。うーーん、さいわい。自分にとっての「さいわい」を考えるのは難しいですね。私はまだ自分を書き換えて他人の力に逆らっている最中ですし、逆らうのに飽きて他人に溶け込むのはしばらく先のことになりそうです。その日を私の命日ってことにしたい。生まれる前に死ぬ可能性…?
今のところの私の「さいわい」は自分の感性にしたがって生きることですが、感性も他人の作品を詰め込んだ宝箱のようです。それはそれで守りたいな。
展開したい暴論はまだたくさんあるのですが、今日の色んな待ち時間は使いきってしまったので私の脳内展覧会はここまでにしたいとおもいます。さいわい、さいわい。

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