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語り合おうじゃないか

 こんにちは23舞台セクション員です。 今回のテーマは「語ること」だそうですね。 作業場日誌書きます!って言い出したにも関わらずあまりにもテーマが難しく、困り果てています。 自分1人では無理だ!と思ったので横にいた舞台セクション員に助けを求めました。そしたら語り合えばテーマに反しないのでは?となったので舞台は異例の対談型日誌をしようと思います。お付き合い下さい(?)、、。 2人とも演劇初心者じゃないということで演劇との出会い、原点について語り合うことにします。 H:演劇との出会いはなに? H':俺は小5の秋だったかな。俺は中学受験をした人なんだけど、志望校の文化祭で偶然暇だったから見たのが初めてだったと思う。 そっちはいつなの? H:中学の部活で仮入部からの流れで入部した感じ H':俺も自分が演劇に初めて関わったのも、中学の部活だったな 俺は中1の9月ぐらいから仮入部した人だったわ H:9月??仮入部にしては遅くない? H':そうなんよ。最初は帰宅部だったんだけど、9月の文化祭でまた偶然演劇部の公演をみてさ ずっと帰宅部でもよかったんだけど、暇だったから入ったって感じ H:そうなんだ、こっちの仮入部さ、演劇部なのに基礎練とダンスだけしてたからダンス好きホイホイ状態だったよ。1種の詐欺だね H':演劇部とはって感じだな… てことはその演劇部を名乗る謎集団に入ったってことよね H:そうだね。別にダンスに釣られたわけじゃないんだけど流れだね H':なるほど。そういう意味ではうちは案外、純粋な演劇部だったわけだ 仮入部の時から発声とかエチュードとかやらせてもらえたわけだし H:エチュードって何?って思って調べたけど即興劇なんだ。やってないな、大丈夫かな我らの演劇部、、。ちゃんと演劇部っぽいことやってていいね H':うちの部活褒められてるの嬉しいわ 俺は中高一貫校だったから結局、惰性で高校まで演劇部にいたんだよなあ H:中学で演劇が嫌になっちゃって、高校は全く演劇関係ないとこ入ったんだよね。そう考えると今ここにいるの奇跡みたいな気がするよね H':確かにそれは奇跡かもしれんね ただ、その時の中学の演劇はなんかミュージカル寄りな印象だけど、プリは会話劇が多いからまた違うものな気もするけど、そこはどうなの? H:いや、違うね

語り、語られ

23照明でございます。 何分初めての作業場日誌ですから、気合が入ってかたっ苦しくなるのもご容赦いただきたいです。 締め切りに追われて遅刻ギリギリのラインで格闘するのは久しぶりのことで作業場日誌を書くと名乗りを上げた当時の自分をぶん殴ってやりたいとさえ思いながらもハイになって書いております。(死に際に呪力の核心をつかんだのかもしれません) さて、しょうもない冗談はさておき本題です。 ちょっとずるいかもしれませんが、僕は他人の「語り」について考えてみたいのです。 SNSが普及しまくった現代では「語り」がそこら中にあふれかえっています。 Twitterを開けば人の語りに触れられますし、極まれば「語り」は文学という芸術にまで昇華します。 しかし、それと同時に世に「語り」が広まるほど誤解もそこらじゅうで見られるようになったと思います。 人が何か語る際にはまず、何か語りたい事柄があって多くの場合は細部を省いて、場合によっては物の順序を入れ替えたりして、わかりやすく、おもしろく工夫します。 そして、これを他人が読み解けばいとも簡単に誤った解釈が生まれます。同じ「語り」から様々な解釈が生まれます。これを当たり前のことと捨て置いても不思議だと取り立ててもどちらでもよいのですが。 ここで言いたいのは「語ること」は一見語り手による一方向的な表現に見えてその実、圧倒的に受け手依存なものなのではないかということです。 僕は大学に入って初めて(といっていいでしょう)演劇に触れました。 仰々しく言えば他人の語りに対して正面から向き合ってこなかったのです。演劇は世にあふれるほどある表現の中でも数少ない一度しか体験できないという特異性を持つ「語り」でした。 そんな僕が演劇を見て得たものは複雑すぎる心の動きと降って湧いては消えていく一過性の思考、そしてこれらを語るのがとても難しいという事実でした。 どれだけ言葉にしても足りない、僕が受けた興奮、感動、衝撃、困惑はこんなものじゃない。 そんな時に言葉が止まるタイプの人間である僕は特に受けた語りが僕の中にとどまり続けていることに驚き、悔しく思うと同時に、こんな何処にもやれない感情の渋滞こそが演劇の良さなのかな、なんて素人ながらに感じました。 よりよい締め方と睡眠時間を天秤にかけると、僕の意思に反して睡眠時間が重く沈み始めたのでこのあたりで。 おやすみなさい

私の鞄に吊るされしきりたんぽが可愛い

皆様初めまして。先輩方や同期の文才溢れるブログに非常に焦りを覚える、23の音響セクション員です。 今回のテーマは「語る」ということで、このテーマについて感じるところを徒然なるままに、そこはかとなく綴ってみます。     私は今まで他人や友達の語りを聞いてきて自分もこれほど夢中になれる何かがあったらなあと幾度となく思いました。 それに一番近いものは何かと聞かれれば女性アイドルですが、何せ熱しやすく冷めやすいタイプなのでグループにしろ推しにしろひとつに定まらない。 「推しを語って」「好きなグループを語って」と言われても次の日にはその人、グループから心が離れていそうでこんな私に今ぱっと思いついた推しを語る資格などあるのか、と思います。   実は9月末に私が周囲に推しだと言ってきた人が参加するライブがあって少しでも自分の「語り」に箔をつけられるよう配信だけでも見てみようかな…という次第です。 短い上にまさに自分語りに終始してしまい申し訳ありません。   あ、9月末と言えば…(無理矢理感)   劇工舎プリズム秋公演「氷星かく語りき」がございます。駒場小空間まで是非足を運んでいただければと思います。 私は当日音響卓を操作します。とにかく本番に弱い私ですが、公演に花を添えられるよう精一杯頑張ります。   発熱10時間後の音響セクション員でした。 最後まで拙文をお読みいただきありがとうございました。

言葉にするのは難しいから

 見た光も、闇も、感じた風や匂いも 伝えるためなら同じものを作ろうとします。22映像チーフです。 今回のテーマは「語ること」 ものにはよるが私の一番苦手なことですね。何故苦手なのか?本心がひとつでは無いからだ。 わけわかんねえよって声が聞こえますので説明しますと、私の場合一度に平均4つぐらいの事を感じたり考えたりするのですがその中から伝えるものの選別を間違えてしまうのです。難儀ですね。 そのため私に同じ質問をすると違う答え又は全く同じ答えが返ってきます。(これは私が矛盾をなくそうと頑張って記憶通りの回答をするため) 最初の質問への返答が誤解されていればそのあとも誤解させたまま、返答が聞く度違えば混乱させ続ける。不審すぎる。厄介ですね。 このような理由から語るのは苦手です。言語化も苦手です……。 まーぁこれでは困ると!いうことでですね、私はひたすらに技術を求めるわけです。言葉にできないのなら映像に、光に、音に変えて伝えたいと強く思うわけです。 時には誰かの言葉を借ります。歌とかにしちゃいます。説明しなさいとか言われたら突然言葉に詰まっちゃいますね。 だから私にとって、語ることは作ることなのかなーと思いつつ。表現者である以上語ることとお友達であり続けたいですね。 さてここからは映像チーフらしいことを語りますね、実は今公演で交代なので! 私技術的なことを調べるの結構好きなんですが、つい最近プロジェクターや錯視についてとある教授に教えてもらいまして。 映像投影を強化したくて何か購入できないかと5000lm(ルーメンと読みます。輝度の単位です。)以上で探してみたところとんでもないお値段で卒倒!桁を見間違えたレベルですね。調べ進めるとなんですか?業務用プロジェクターなるものが現れましたがレンズが別売りだったり大きすぎたり重すぎたりする。教授所有の業務用プロジェクターを触らせてもらいましたがやはり大きかったですね。10kgのお米は袋に入って柔らかいから運ぶのもそこまで苦ではないのに、プロジェクターが10kgともなれば硬くて歪な鉄の塊(大)、運ぶのが大変すぎるぞと。さすがに業務用の購入は断念しました。 ……と、このように。日常での出来事を語るのは好きです。うるさいぐらい喋ります。見たものを共有するのが好きなんですね、きっと。 では語ることが苦手な姿と好きな姿の両方を語ったところでこ

本当に会話できてる?

遅れてすみません22宣伝美術です…泣 「語ること」ってなんだろう…どうしよう…と思いながら既に投稿されている他セクションの作業場日誌に目を通し、23の文章力に涙を流しています。ゴーストライターになってほしかった。頑張って書きます。 うーん、語ること、なんとなく一方的なものであるように感じてしまいます。「語り合う」という言葉が別に存在するのであれば「語る」ことは片側向きの矢印なのかな〜と。ただ、小道具担当さんが書いていたように相手を意識するものではあるし矢印を受け止める相手がいるからこそ成り立つことだと思います。 自分が伝えたと思っていたことが相手には伝わっていなかったってこと、往々にしてありますよね。たまに、人と会話が成り立っている、意思疎通ができていると思い込んでいるのは自分だけで本当は周りから見たら自分だけ楽しそうな意思疎通できないモンスターなんじゃないかって不安になりませんか?私は今ばっちり不安になっています。泣きそうです。締めます。 私の言葉が相手に届いていて、私も相手の言葉を正しく受け取れていますように…

題名の考案が大の苦手です。

 22小道具です。 今まで何度か書いてきた稽古場日誌ですが、どうにも未だに何を書くのが正解なのかわからずにいます。今回のテーマは「語ること」だそうですね。 「語る」という言葉は相手を意識した言葉であるような気がします。自分がいて、相手がいて、その相手に何かを伝えること、といったイメージです。これは私の解釈ですから間違っている可能性もあるかと思います。叩かないで! 私は外の世界に出力するまで自分のアイデアがまとまらないタイプで、よく紙に書いたりスマートフォンやタブレットに打ち込んだりして整理しています。 アイデアの出力はひとりでも飽きるまで行えるのですが、自分のアイデンティティについての思考や自己の反省となるとなかなかうまく行きません。自分自身が自分について価値のあるものと認識できていないからか、どうにも馬鹿馬鹿しく感じてしまうのです。 ここで登場するのが「語り」ですね。どうにも価値が感じられない私の話でも誰かにきいてもらいながらなら出力する価値のあるもののように思えるのです。 幸いなことに私は日常の中で「語る」機会を多く与えられています。とても有り難いことです。 聞き手として存在してくれる相手を得たおかげで私はなんとか自己理解を深めることができています。自己理解などあってもなくても良さそうなものですが、日頃何かにつけて熟考しているふりをするのが好きな私にはもってこいのお楽しみなのです。 また、相手に「語ってもらう」ことによって自分には見えていなかった別の世界を見ることや、自分では思いつかない全く違った視点を得ることも可能です。これもまた、新たな面からの自己理解に繋がったり。 相手の「語り」をきいて、相手のことを理解したような気持ちになることもありますね。私が相手の世界を理解していることなどあり得ないのですが、それはそれとして理解したような気持ちになれるのはなんだか嬉しいのです。  ときには「語り」「語られる」ことによって共通点のようなものが見えてくる瞬間も存在します。もちろんすれ違いにすれ違いを重ねた結果の勘違いだったりもするのですが、別々の人生を歩んだ相手の片鱗に自分のもつそれと同じようなものを見つけるとちょっとした驚喜を感じることができます。 当然「語り」によって発見される事物は楽しいものや面白いものでない場合も多々あるのですが、それでもやはり私は「語り」が好き

いつも言葉は嘘を孕んでいる

  椎名林檎が歌った「ありあまる富」は、私にとってあまりにも優しい曲だった。 そのはずなのに、この矛盾したワンフレーズだけは鈍い痛みを寄越してくる。 今回は、23衣装セクションの望月がお届けします。 お題である「語ること」を語ろうと考えて、先鋒のwebセクション員さんが「吾」に着目していたので言偏(ごんべん)に目を向けることにしました。補いあって生きていきたい。 さて、「言偏」「言葉」と連想して浮かんだのが、冒頭の「いつも言葉は嘘を孕んでいる」というフレーズだったのですが、言葉が好きな人間としてはとても切なくて、なんだかここだけ耳を塞ぎたくなります。 私は、嘘を悪者だと思っているんでしょうね。 単純な嘘については、弟・アベルを殺した兄・カインを思えばわかりやすいでしょう。旧約聖書で知ることのできる、人類で初めて嘘をついたとされる存在です。では、「言葉が嘘を孕んでいる」とは一体。言葉や語りが嘘そのものではないとは、どういうことなのでしょうか。 語りにおいては「相手に伝える」というステップがあると、webセクション員さんが書いてしました。それから、嘘が「事実ではないこと」「正しくないこと」、そして「望ましくないこと」という側面を持つことを知ったなら、その語りに耳を傾ける存在が見えてきます。 伝える側にとっては、事実で、正しくて、望ましい。 受け取る側はそうではないことが、この世界には多々あり得るのでしょう。 演劇を含むあらゆる表現は、そうした薄氷の上を歩むような不確実性に囚われているように思います。 そう思うと、「嘘を孕む」ってそう悪くないかもしれない。孕むだけならね。カインにはなりたくないからね。 演劇における「語ること」といえば台詞でしょうし、秋公演の登場人物も嘘を孕んだ語りを紡ぐかもしれません。あなたは、作中のどんな語りに嘘の匂いを感じ取るでしょうか。 その「解釈」の手がかりとなるのは、おそらく非言語情報。真っ先に思いつくのは役者の身体だったりするわけですが、我らが衣装セクションによる登場人物の外見だって、ひと役もふた役も買っているという自負を抱きつつあります。もちろん、政治家のネクタイが赤か青とか、そんなわかりやすいものではないかもしれないけれど。 衣装セクションとしての私は、近頃ずっと画像検索をして、ネットショッピングをしています。たまに古着屋さんに行きます。

ちくわ

 こんにちは!22制作です! 今回のテーマは「語ること」だそうです。なんか今回テーマ難しくないですか!?汗 普段作業場日誌ではなるべく難しいことを考えずにサラッと書こうと思っているのですが今のところサラッと書けるほど書くことが思い浮かんでこないです汗汗汗 とりあえず「語る」の意味をインターネットで検索してみました。 「話す。特に、まとまった内容を順序だてて話して聞かせる。」 だそうです。 順序だてて話して聞かせるなんて言われると今の私には真っ先に就活の面接が思い浮かんでしまいます。嫌な傾向です。 あと語ることというと……?なんでしょう? 結局オタク語りしてる時は楽しいですよね。多分。ちなみに私はだいたい2年周期で推しが変わります。 実家の犬が可愛すぎるのでここまでにさせていただきます! それでは!

語るのが上手くなりたい

 はじめまして、23のWebセクション員です。 チーフの先輩の「作業場日誌書いてくれる人いませんか?」の声に意気揚々と挙手したもののあまり勝手が分かっていません。とりあえずテーマについて思うことを書いていきたいのですが、何分初めての執筆なのでお手柔らかにお願いします。 劇工舎プリズム秋公演まで1ヶ月を切りました。 毎公演恒例(と聞きました)の作業場日誌、今回のテーマは『語ること』でお送りします。 「語る」と「話す」の違いってなんだろう、そう思って傍らにあった電子辞書を引いてみました。 語る・・・・・・事柄や考えを言葉で順序立てて相手に伝える、筋のある一連の話をする 話す・・・・・・言葉に出してつたえる、口で述べる、互いに会話をする (広辞苑より) なるほど、それぞれの意味は理解できるけど、違いについては分かるようで分からないような感じです。 ところで、「語」という字には「吾」が含まれています。これと広辞苑の意味を組み合わせると、「語る」とは「自分のことについて、事柄や考えを言葉で順序立てて、筋のある一連の話として相手に伝える」とも解釈できる気がします。要は「語る」は「話す」に比べて、自分のことについて相手に伝えるというニュアンスが強いんじゃないかな、ということです。 日本語に詳しい方に言わせれば間違っているのかもしれませんが、今回はこれでいきたいと思います。 4月に大学生になって、高校までと比べ関わる人の人数は増え、タイプも多様になりました。同じ大学で共に学ぶ同級生、プリズム含めサークルの先輩や同期、バイト先の人。 その中で、「この人話上手いな」って思う人って、程よく自分の話をするのが上手い人な気がします。先程の解釈を使えば、語るのが上手い人。 単に相手の話にリアクションするだけじゃなくて、自分の話をして、それを話題にできる。または、既にある話題に関連した経験や考えを話して、話題をもっと深められる。それも、他の人が嫌にならない程度に。 そう考えると、私は語るのが苦手なタイプだと思います。話すのは好きだけど。 自分の話をしようと思ってもできる話がないし、自分の内面の話をするのってなんか恥ずかしいし。 以前大学の授業で「人と仲良くなるにはある程度自己開示(自分から自分の内面を明らかにすること)が必要」と言われましたが、なかなか難しいことだと思います。 じゃあ、そんな私が