左様なら

この文章が作業場日誌になるころにはおおよそ90燈の燈体が駒場小空間に吊られているのでしょうね。照明チーフの水口です。
チーフ小屋入りも3回目、新歓合わせれば4回目?、ついにラストチーフです。感慨深いです。


先日観にいった芝居で、開場して舞台を目にした瞬間にああ夏の午後だな、と思いました。
あとから扇風機がある、緑がある、座っている役者が半袖を着ていることに気づいたのですが。最初の瞬間光が目に入ってああ夏だ、午後だって感じたんですね。
そういうことに気付いてテンションが上がるくらいには照明と仲良くなってきたのでしょうか。どうなんでしょう。


去年、仕込み中に他劇の先輩から聞いた「照明って唯一時間も空間も支配できるセクションなんだよね」という言葉がずっと印象に残っています。
場面単体での場所・時間を伝えて来るのはもちろん、物語の中での流れゆく時間や変化する空間も照明によって表現されます。


ただそれと同時に、その場限り、一回きり、なんですよね。照明、光って。
厳密にいえばそうでもないですが、例えば舞台、音響、モノとしてデータとして残すことが、そこから想起することが出来るじゃないですか。
照明は残りません。データとしてその空間を空間のまま記録することも触れられるものではない光を残すこともできません、当然。記憶の中だけです。
記憶にしても私の記憶力はポンコツなので、大まかな印象でしか覚えていることができず。
演劇の魅力とは何か、という問いの一つの答えにもなりそうですが。
照明の魅力ってやっぱり、本当の意味で残らない、残せないことだと思います。


入舎してから照明しかやってきませんでした。
その割に照明への造詣がめちゃめちゃ深い、というわけでもなく。なんならもう一人の照明同期の方がいいプランを切ってる気もします。
分かりませんが。この一年間、照明でしかないなりに、チーフなりに、照明と向き合えていたのでしょうか。
残ることのない照明は、私に何かを残してくれるのでしょうか。


後輩が切るプランで後輩がオペをしています。見守っています。口も出しています。
チーフをしています。劇場でお待ちしています。

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