語り、語られ

23照明でございます。

何分初めての作業場日誌ですから、気合が入ってかたっ苦しくなるのもご容赦いただきたいです。


締め切りに追われて遅刻ギリギリのラインで格闘するのは久しぶりのことで作業場日誌を書くと名乗りを上げた当時の自分をぶん殴ってやりたいとさえ思いながらもハイになって書いております。(死に際に呪力の核心をつかんだのかもしれません)


さて、しょうもない冗談はさておき本題です。

ちょっとずるいかもしれませんが、僕は他人の「語り」について考えてみたいのです。

SNSが普及しまくった現代では「語り」がそこら中にあふれかえっています。

Twitterを開けば人の語りに触れられますし、極まれば「語り」は文学という芸術にまで昇華します。

しかし、それと同時に世に「語り」が広まるほど誤解もそこらじゅうで見られるようになったと思います。


人が何か語る際にはまず、何か語りたい事柄があって多くの場合は細部を省いて、場合によっては物の順序を入れ替えたりして、わかりやすく、おもしろく工夫します。


そして、これを他人が読み解けばいとも簡単に誤った解釈が生まれます。同じ「語り」から様々な解釈が生まれます。これを当たり前のことと捨て置いても不思議だと取り立ててもどちらでもよいのですが。


ここで言いたいのは「語ること」は一見語り手による一方向的な表現に見えてその実、圧倒的に受け手依存なものなのではないかということです。


僕は大学に入って初めて(といっていいでしょう)演劇に触れました。

仰々しく言えば他人の語りに対して正面から向き合ってこなかったのです。演劇は世にあふれるほどある表現の中でも数少ない一度しか体験できないという特異性を持つ「語り」でした。


そんな僕が演劇を見て得たものは複雑すぎる心の動きと降って湧いては消えていく一過性の思考、そしてこれらを語るのがとても難しいという事実でした。


どれだけ言葉にしても足りない、僕が受けた興奮、感動、衝撃、困惑はこんなものじゃない。

そんな時に言葉が止まるタイプの人間である僕は特に受けた語りが僕の中にとどまり続けていることに驚き、悔しく思うと同時に、こんな何処にもやれない感情の渋滞こそが演劇の良さなのかな、なんて素人ながらに感じました。


よりよい締め方と睡眠時間を天秤にかけると、僕の意思に反して睡眠時間が重く沈み始めたのでこのあたりで。

おやすみなさい。23照明セクション員がお届けいたしました。

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