いつも言葉は嘘を孕んでいる

  椎名林檎が歌った「ありあまる富」は、私にとってあまりにも優しい曲だった。

そのはずなのに、この矛盾したワンフレーズだけは鈍い痛みを寄越してくる。




今回は、23衣装セクションの望月がお届けします。

お題である「語ること」を語ろうと考えて、先鋒のwebセクション員さんが「吾」に着目していたので言偏(ごんべん)に目を向けることにしました。補いあって生きていきたい。

さて、「言偏」「言葉」と連想して浮かんだのが、冒頭の「いつも言葉は嘘を孕んでいる」というフレーズだったのですが、言葉が好きな人間としてはとても切なくて、なんだかここだけ耳を塞ぎたくなります。


私は、嘘を悪者だと思っているんでしょうね。


単純な嘘については、弟・アベルを殺した兄・カインを思えばわかりやすいでしょう。旧約聖書で知ることのできる、人類で初めて嘘をついたとされる存在です。では、「言葉が嘘を孕んでいる」とは一体。言葉や語りが嘘そのものではないとは、どういうことなのでしょうか。

語りにおいては「相手に伝える」というステップがあると、webセクション員さんが書いてしました。それから、嘘が「事実ではないこと」「正しくないこと」、そして「望ましくないこと」という側面を持つことを知ったなら、その語りに耳を傾ける存在が見えてきます。


伝える側にとっては、事実で、正しくて、望ましい。

受け取る側はそうではないことが、この世界には多々あり得るのでしょう。


演劇を含むあらゆる表現は、そうした薄氷の上を歩むような不確実性に囚われているように思います。

そう思うと、「嘘を孕む」ってそう悪くないかもしれない。孕むだけならね。カインにはなりたくないからね。


演劇における「語ること」といえば台詞でしょうし、秋公演の登場人物も嘘を孕んだ語りを紡ぐかもしれません。あなたは、作中のどんな語りに嘘の匂いを感じ取るでしょうか。

その「解釈」の手がかりとなるのは、おそらく非言語情報。真っ先に思いつくのは役者の身体だったりするわけですが、我らが衣装セクションによる登場人物の外見だって、ひと役もふた役も買っているという自負を抱きつつあります。もちろん、政治家のネクタイが赤か青とか、そんなわかりやすいものではないかもしれないけれど。




衣装セクションとしての私は、近頃ずっと画像検索をして、ネットショッピングをしています。たまに古着屋さんに行きます。こうした行為は、「脚本に連なる無数の文字を手繰り寄せて、作・演の言葉を解きほぐして、実在しない誰かの外観を構成する日々」と語ることもできる。

「どちらかが嘘ということもない。」「受け手の捉え方次第です。」

そう言って差し障りのない内容だと感じています。


でも、同じ言葉で抱えたすべてを放り投げたくなる瞬間が、この先も演劇を続けていたらきっと、訪れるのでしょう。自らの言葉の過不足を前にしてもなお、「適切だ」と言い張ろうとする衝動に襲われたりして。

その魔から50m走10秒台の両足で逃げて、逃れて、逃げ続けて、ずっと表現という「語り」に携わる人間でいたい。そんなことを綴って、残暑に佇んでいます。




あ、「セプテンバーさん」(RADWIMPS)の季節ということは、そろそろ芸術の秋ですね!自然豊かなキャンパスの奥地・駒場小空間で、劇工舎プリズム第81回公演 『氷星かく語りき』の観劇なんていかがでしょうか。





秋の曲なら「すべりだい」(椎名林檎)が好き!な23衣装セクション員がお届けしました。

ご清覧いただき、ありがとうございました。

コメント

このブログの人気の投稿

大きな水まで

語り合おうじゃないか

ねえ、生きてくのって、きっと、こういうことなんだろうね