ごめんなさい

御機嫌よう。映像です。

今回のテーマは「後ろめたさ」。なんだか重苦しいテーマですが、こういう話は割と好きです。

「後ろめたさ」という感情は「罪悪感」と似ていますよね。どちらも自分の過ちを自覚した時に感じるものですが、後ろめたさは罪悪感よりもソフトなもののように感じます。背徳感はよく分からないですが、二郎系ラーメンとかを食べると感じるらしいです。まあとにかく、法の範疇で良心が咎めるようなことをしてしまい、そのことに気づいた時、後ろめたさはやって来るのでしょう。

さて、私はこの「後ろめたさ」がかなり苦手です。上手く言語化することは出来ませんが、あえて詩的な表現をするのであれば「じわりと張った根が心臓を絞めつける」ような感覚でしょうか。これに冒されている時は喜怒哀楽が怒(自身に対する怒り)のみになり、何をしても感情が動かなくなってしまいます。何を見ても色あせて見えて、何を食べてもなんか不味いです。こうして書くと呪いみたいですね。自分が自分自身にかける呪い。「後ろめたさ」を突き詰めると心を病んでしまうのであながち間違いでは無いのかもしれませんが。

20年にも満たないこの短い人生の中で、私は幾度となく自らの過ちを自覚してはそれと同じ数の「呪い」を堪能してきました。しかし近年のことを振り返ってみると、その発生件数は年を重ねるごとに少なくなっているようで、純粋に嬉しいです。種明かしをすると、後ろめたさを感じないように超がつく程慎重に生きるようになったからに他なりませんが。何はともあれ、幼い頃の無神経で無遠慮な私はもう何処にもいません。これは喜ばしい成長だと祝福するべきでしょうが、呪いの賜物だと言いたくもなるのは私がまだ成長しきっていないからでしょうか。(「呪い」は「まじない」とも読むことを思い出したので書き残しておきます。)

この呪いから解き放たれる方法はざっくり二つあります。一つ、自分の過ちに向き合い素直に謝罪する。二つ、自分の過ちから逃げて開き直る、あるいは忘れる。(三つ、誰かに裁かれる。というのも考えましたが、人によりそうです。)結局のところ後ろめたさは個人の心の持ちよう次第なので、個人で解決するしかありません。どっちを選ぶかは個人の選択に委ねられます。ですが私に言わせると、二つ目を選んで新たな「後ろめたさ」に苦しめられる位なら素直に謝ってみるに越したことはありません。相手が全く気にしていないこともざらにありますし。

さっき「呪い」だなんて物騒な言葉を使いましたが、この「後ろめたさ」と呼ばれる感情が法に満たないモラルを守っていることは認めざるを得ません。心理学や人類の進化について無知な私が思うに、後ろめたさや罪悪感はヒトの遺伝子に刻まれた治安維持装置です。むしろ、後ろめたさを感じることは(社会秩序が欲する所の)良心を有している証拠だとポジティブに捉えることもできるかもしれません。...秩序に首輪をはめられている、と捻くれて捉える人もいるかもしれませんね。なかなか無いと思いますが、友達がこのように言い出したら話題を変えるのが得策です。大方善悪の定義から議論する羽目になるのでキリがありません。

話が逸れましたが、「後ろめたさ」は当たり前の感情です。人間がミスをするのと同じ位当たり前です。なので、この感情と上手く付き合っていくことも賢く生きる知恵の一つなのでしょう。心のしこりをできるだけ減らして、幸福な日常を築いていきたいものですね。

 

...…知ったような口を利いた文章を書いてしまった。これを作業場日誌に載せる資格が私にあるのだろうか...。いや無いに決まっている。こんな見苦しい文章を読んでも時間の無駄でしかない。

ああ、私は取り返しのつかないことをしてしまった...!
後ろめたい、後ろめたい、後ろめたいぃ....!.

..この失態は謝っても謝りきれません。忘れることも開き直ることも当然許されないでしょうし、私も自分を許せません。この後ろめたさは一生私の心臓を絞めつけたままでしょう...。一生をかけて償うことを誓います...

ですが、幽霊となった私はお墓の前できっとこう言うでしょう

 

(ヘ´ρ`)ヘ「う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

おふざけが過ぎました。ちなみに寒いギャグを披露するのは後ろめたくありません。オチがつきますし、それ位は許される寛容な場だと思っています。ただ、このふざけた文章を書くために作業を中断していることに関しては本当に後ろめたくなってきました。この日誌のタイトルには、私のそんな後ろめたさが込められています。

以上、23映像チーフでした。

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