ねえ、生きてくのって、きっと、こういうことなんだろうね

タイトルは今回の劇中のセリフからお借りさせてもらいました。

2023年度 新人公演「透露光過」の作業場日誌のラストバッターを務めさせていただく、舞台セクション員兼演出助手のヒイラギです。作業場日誌で演出助手の話をすることに一抹の「後ろめたさ」を感じながらも、よく考えたら今回のテーマ通りだから大丈夫だろうと開き直っていま文字を紡いでいます。作演ごめんね。たぶん趣旨と違うわ。

現代語における「後ろめたい」の意味は、「やましい、気が咎める」などのようです。(古文における「後ろめたし」の意味は「気がかりだ」だったなあとふと思い出しましたが、蛇足ですね。)

僕という人間にとって、「後ろめたい」感情が芽生えるのは、周囲が当たり前だと思っていることが自分にはできていないんだと気づいた時が多いような気がします。真面目に努力して積み上げていくこととか、朝早くから活動するとか、周囲に気を配りながら発言するとか、とても苦手なタイプなので。もちろん、そうあれるように、そうありたいと思って頑張ってもいますが。そう簡単にはいきませんね。至らないところです。

ただ、その一方で、最近ふと考えることがあります。僕は、自分が想像した「周囲という虚構」が作り出している「当たり前」にとらわれているんじゃないか。ということです。別に陰謀論めいたことを言いたいわけではないですし、すべての「当たり前」が幻想だと声高に叫ぶつもりも毛頭ありません。それでも、人にはどうしようもなく得手不得手があって、それを自ら乗り越えようとすることの価値は尊いですが、それと同等に、自分のこだわりとか考え方とかを自分の強みとして生かしていける型を見つけていくことも大きな価値を持つと僕は信じてみたいんです。

人が当たり前にできることはあんまりできないけど、人が難しいと感じることは少しできるかもしれない自分自身の新たな型への希望と、そう思い込んで現実逃避しているだけなのではという不安を抱えながらも、前を向いて自分なりに演出助手としてこの公演にかかわれたことを座組の皆様に(特に、いつまでも設計図を出さなかったのに責めずに大量の作業を僕の代わりにしてくれた舞台監督と舞台チーフの2人に)感謝して作業場日誌を終えたいと思います。

P.S. 座組外ですが、相談に乗ってくれた友人のM.T.にもこの場をお借りしてお礼申し上げます。

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