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9月, 2024の投稿を表示しています

先輩へ、同期へ、後輩へ。

 僕の舞台監督としての原風景は、やっぱり新人公演ですね。あの時は舞台監督になったからすごく頑張ろうとしてたけど、舞台監督だからとか、舞台監督なのにとか、そう思い込んで勝手に自分の首を絞めていたらしい。でも終わってみたら、拙いけどなんだかんだ舞台監督をやれていて、あれはあれでいい思い出。  そのあとはすぐに新歓公演。3劇の中で舞台は一番凝っていた。まあ作演が舞台の人だったし。彼のアイデアを実際に形にしていくのは楽しかった。小屋入りには頼もしい先輩方がいて、仲良くなった同期もいて、楽しかったね。  そして夏公演。いやぁしかし大変な公演だった。初っ端から舞台美術を決めるよって時にトラブった。先代舞台監督の涙を見て、上の代のことをちょっとよく知りすぎちゃって、僕まで苦しくなった。でも先輩にとってはプリズムで最後の公演だし、こんな状況で終わってほしくなかった。僕が舞美をやれば全て解決。1人で叩きまくって周りに心配され、僕自身も色々あって気落ちしててちょっと辛かった。僕は演劇の経験がないし、周りの言うことが全て正しいような気がして1人になりたくなる時もあったし、やりたくて舞美やってるわけじゃねえよって言いたくなる時もあったし、叩き場で1人何もせずにボーっとしたり横になって死んでいたりしたこともあった。  まあ先輩と叩いたのも、後輩に色々教えながら一緒に作っていったのも、楽しかった。最後には僕が尊敬する先輩の綺麗な涙を見て、花を渡して送り出したし、よかったかな。先輩は本当にすごい人だと思う。あの人は1年間逃げずに舞台監督をやり切った。  あなたのような舞台監督の後を継ぐことができて、光栄でした。  秋公演になって、いよいよ僕も舞台監督をやるのは最後になった。今の僕は、いくらかちゃんと舞台監督をやれてるんではなかろうか。まあ及第点かな。僕は1年間頑張った。本当によく頑張ったよ、うん。舞台監督、なんだかんだ楽しかった。  僕が舞台監督を頑張れたのは同期のおかげだと思う。特に同期の舞台屋には大変お世話になりました。今回の作演は舞台屋同期で、もう1人の舞台屋同期も稽古場にいるから、今回は叩き場に僕しか23舞台屋がいなかった。そうなって初めて気づいたけど、舞台屋同期がいるのといないのとでは、僕のやる気が全然違う。やっぱ同期がいると叩きは100倍楽しいよね。  作演は忙しいながらもたまに叩き...

まだ18歳のくせにいっちょ前に演劇を語る

はじめまして、24代舞台セクション員の中で1番おでこが広い人です。 さて、今回のテーマは「原風景」だそうです。考えた末、「その人に大きく影響を与えている幼少期の視覚的な記憶」を広く原風景と捉えるのが私にはしっくりきました。 とすると私の原風景は、母が「からすのパンやさん」という絵本を読み聞かせてくれている光景です。4歳頃、毎日のようにこの本を読んでとせがみ、全文丸暗記していました。 そして成長した私は、同じ小説を10回以上読み返し、同じ曲を2時間くらいリピートで聴き、好きなドラマは録画して5回は見ます。内容を知っているものや結末がわかっているものに安心を求めてしまう幼さからなかなか抜け出せません。 しかし演劇は1回きりです。同じお芝居を繰り返し上演するとしてもハプニングやアドリブはつきもので、役者の調子にも左右されます。 脚本を書いてみたかった15歳の私は高校で演劇部に入りましたが、部員が自分入れて2人(しかもその1人は「セリフ無しなら出演してもいい」とか吐かす)。 それでもなんとか1度大会に出場し、舞台をつくること、舞台に立つことの魅力に圧倒されました。幕がミスで降りず、もう1人の彼とアドリブで芝居してつないだ1分間は、心から震えた。先がわからない一度きりの中で今できる最高のものを目指す面白さを知ることができました。 演劇はきっとこれからも、私の変化のきっかけになると思います。大人になっても時折演劇を感じられるくらいの距離にはいたいです。とりあえず今は、プリズムでのびのびと演劇を楽しみながら、たくさん考え、経験を積み、成長していけたらと思っています。 しかしのびのびとは言ったものの、今回は構造物が多いうえに舞台美術(私)がへっぽこだったため舞台屋は緊迫しています、とほほ 初めての作業場日誌、書くのが楽しすぎて今夏くらい長くなってしまったので、これくらいにします。 最後に、たくさん助けてくださったRS先輩とSBちゃんに大きな感謝を申し上げます。

八月、少女像

24の照明員です。初めて作業場日誌を書かせていただきます。  原風景と言われると難しいのですが、幼少期に祖父母に連れられて行った、東北のとある美術館での光景について書こうと思います。  当時私の家では、毎年お盆前後の2週間ほどを東北の母親の実家で過ごす習慣がありました。幼い私の退屈を危惧してか、その間祖父母は私を色々なところへ連れて行ってくれたのですが、車で40分ほどのところにある美術館もそのうちの一つでした。いくつかの展示室に郷土の芸術家の作品を集めた小さな美術館でしたが、その中で今もなお強く印象に残っているのが、ブロンズ像の展示室です。  適切な呼称が分からず展示室と書きましたが、実態は他の展示室同士を繋ぐ通路のようなスペースで、壁際にブロンズの少女像がいくつか並べられているにすぎません。しかし一つ大きな特徴があり、ちょうど少女像が見つめる方向の壁が一面ガラス張りになっていて、外から光が差し込むようになっているのです。八月の強い日差しがガラス越しに乱反射して、立ち並ぶ少女像に神秘的な輝きを与えていたのが印象的で、子供ながらに引き込まれたのを覚えています。幼い頃の私は重度の飽き性だったので美術館などを楽しめるようには思えないのですが、そのときは全く飽きずにいたのも今思うと不思議だったなと思います。  その後の私は10年ほど芸術と無縁の生活を送っていたのですが、高校生のときに突如として美術館巡りに目覚め、一時期は月に一回上野に赴く生活をしていました。そして大学入学後は思いつきで劇団に入会し、照明セクションで舞台や役者を照らしたり照らさなかったりする仕事をしています。幼少期に見た少女像の輝きがこのどちらか(あるいは両方)に影響を与えたのかはわかりませんが、『原風景』という言葉を頭に浮かべながら考えてみると、少なくともその手のものを楽しむ素地は昔からあったのかなぁとも思えてきます。  これで私の原風景の話は終わりです。なぜ美術館巡りが好きかという話をここから延々とし続けても良いのですが、あまりにも蛇足すぎたので長考の末割愛させていただきます。  24の照明員がお送りいたしました。

Primal Vision

 こんにちは、23代映像チーフです。 「走馬灯」というものがあります。死に際に見る人生のプレイバックみたいなものですが、そこで映る景色こそが「原風景」なのだと思います。死に際とは言わずとも私は今(納期が)ギリギリな状況にあるので、過去に思いを馳せやすい具合となっています。(追記:このパートを書いていた当時の話です。納期はなんとかなりそうですが日誌は締切過ぎてます。ごめんなさい。)  どの原風景について話そう。原風景は決して一つに限らず、その人間がいる(いた)世界の数だけ原風景があるのではないかと思います。かく言う私もそうです、というか私がそうだから言ってるんですが。…となるとどの原風景を選ぶかって話になりますが、自分の原風景を語るのってまあまあな自己開示なんです。ただでさえ幼少の記憶は朧げなわけですから、下手に選んで下手に書けば見た夢の内容を話すかの如く自己満足な文章になりかねない。でもって、この日誌をチラ見はするであろう座組の皆さんにも「へー」と思ってくれるようなことを書きたい。(でないと書く甲斐がない。)というわけで、この日誌では「プリズムで映像に入ったきっかけの原風景」について話します。  あれは母校(中高一貫校)に入学して2日目の出来事でした。その日は1学期の始業式で、私は同学年に知り合いが0人だったので結構緊張してたはず。始業式が一通り終わると「文化祭実行委員長の発表」に演目が移りました。母校はGWに文化祭をするので入学したばかりの中1は客として参加することになります。私は文化祭はおろか説明会に行った記憶すらないので(それってどうなの?という話はさておき)文化祭の話は完全に寝耳に水でした。「なんか始まったぞ」と私が状況を飲み込んでいる間に実行委員長がスローガンの発表を宣言すると、後方にいる上級生たち(1000人以上)から熱狂の雄叫びが湧き起こりました。その場の雰囲気に呑まれている私を差し置いて、客席は暗転し壇上正面の壁がプロジェクターの光に照らされました。  ここまで前置きです。  突如として鳴り響く爆音のEDM。ギラギラと明滅し出すスクリーン。エフェクトがバチバチに効いた映像。脳がギリギリついていける位の情報量。...そこで流れたのは「スローガン発表のPV」でした。始業式は講堂で行われていたので音量と光量は映画館並みで圧倒的でした。(目と耳が少し痛かった...

今は外出したら一刻も早く家に帰りたいです

24音響セクション員です!今回の公演で初めて音響に入りましたが、作業場日誌を書かせていただくことになりました。拙い文章ですが、少々お付き合い下さい。 今回のテーマが「原風景」ということで、今よりずっと幼い頃に思いを馳せて、何が思い浮かんでくるかなぁと試してみた結果、ある場面がバッて印象に残っているわけではないけれど、おばあちゃんといた思い出が一番風景として自分の中に残っていて、「原風景」と言うに相応しいのではないかと気づきました。 私の両親は共働きで、幼稚園に行くときはおばあちゃん家に行ってそこから通園バスに乗り、幼稚園が終わったらおばあちゃん家に帰る。小学校に進学しても然り。みたいな生活を送っていました。 私は放課後に一緒に遊ぶような友達は残念ながらいなかったので、おばあちゃんとお絵描きしたりパズルしたりドラマみたり、沢山の時間をおばあちゃんと過ごしました。 おばあちゃんは動物好きで、犬や猫をたくさん飼っていて、その子達ともたくさん過ごしたな。仲良くなれる子もいれば全然触らせてもらえない子もいて、私のこと好いてくれるように一生懸命だったな。おばあちゃん家の裏は竹林になってて、そこに秘密基地作ろうとしたり野良猫を見つけてついていったり、そんなことも思い出せる。 私は本当におばあちゃんに懐いていて、親が帰ってきても自分の家に帰りたくない。おばあちゃん家にいるんだ。と泣いてせがんだそう。そんな私に親は「じゃあおばあちゃん家の子になれ!」と怒ってたみたい。両親ごめん。でもそう何回も何回も聞かせないでよ恥ずかしい。 そんなおばあちゃんと、おばあちゃん家での思い出が私の幼少期の記憶の半分以上を占める気がするよ。 だから辛くなったとき、心の中でおばあちゃんに助けを求めちゃうのかな。もう一度あのあたたかさに包まれたいと願ってしまう。 昔の記憶ってなんでこんなにキラキラしているんだろう。 放課後に遊ぶ友達がいなかったって簡単に言ったけれど、私の中でそれって結構コンプレックスでした。みんなは放課後学校に行って遊んだり、一緒に誰ん家でゲームしよって約束したりしてるけど、私そんなに仲良い子いないな。なんなら休み時間だってひとりでブランコしたり泥団子作ったり。羨ましいな私も遊びたいな。そんな感情いっぱいでした。 でも今となってはおばあちゃんと遊んだ記憶がとっても色濃く私の中に残ってキラキラ...

ご飯が炊けるまで暇なので

はじめまして、24のしがない音響員です。 原風景がテーマということで、今の私を形作るものは何だろうと考えてみました。 まあ飽き性なのでこれと言って続けているものもなく、一応音楽はずっと好きですが、一番長く続けたであろうピアノさえ高校受験を機にやめてから弾くこともほぼなくなっているのですから、我が物顔で語ることなどできません。 何かないものかとパソコンに文字を打ち込みながら唸っていましたが、途中で、あ、これだ、と思いました。 私は文章をつづることが好きです。 小学生のころから本が好きだったのですが、いつだったか、クラスメイトが「お話を書いてみたんだ」と話している声が耳に入りました。 図書委員会委員長になったり図書館に通いつめたり、読むことはずっと大好きでしたが、「自分で物語を紡ぐ」という発想がなかった当時の私にとって、「物語は自分で生み出せるものだ」と感じたのは確かな衝撃でした。いつかは「作る側」に行きたい、と思うようになったのもその時だったと記憶しています。 小学生のころは自由帳に鉛筆で、中学生のころは大学ノートにシャープペンで、高校生のころはスマホのワードアプリで、そして今はこうやってパソコンに向かって、私は文をつづってきました。 誰に読んでもらうでもない自己満足の拙文で、行き詰まって完成してないものもたくさんあるのですが、書きたい、と思う気持ちはあの時から変わらず私の心にあります。 大学のレポートはなかなか書き進められませんでしたが、この「書きたい」という気持ちを大切に、これからも文をつづって、生涯を通した趣味になったらいいなと思う今日この頃です。就職するとき、作る側の分野に行けたりしたら最高ですね。努力しなくては。 そろそろご飯が炊けそうなので、この辺で締めさせていただきます。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

都合のいい頭

 はじめまして。初めての作業場日誌は、原風景についてお話しすることになりました。原風景、げんふうけい…。 げんふうけいって、なんだろう。よくわからない何かについて話すのはなかなか難しいものです。ただ、今まで考えてこなかったことについて考えるのは楽しいので、このような機会をくれた作演出さんに感謝ですね。 みんなの作業場日誌を読んでいると、原風景はその人の原点とも言える風景で、どこか懐かしさを感じるもののようです。この場合の懐かしさは、良し悪し関係なく「こういうこともあったな」という感覚なのでしょうか。 そうなると、私の原風景はどこまでも続く田んぼ道になりそうです。田んぼの畦道からは兄とどんじゃんけんをして時に田んぼに足を突っ込み泥だらけになって怒られた記憶が、一面雪の積もった真っ白な田んぼからは家族で手足をパタパタさせてスノーエンジェルをたくさん作った記憶が、田んぼの横を通るでこぼこ道からはマラソン大会でなぜかいい成績を残し、炊き出しの豚汁がものすごく美味しく感じた記憶などが蘇ってきます。蘇る記憶はいいものから悪いものまでさまざまですが、どの記憶の田んぼもなぜかきらきら光っていて、あの田んぼ道を思い出すと少し気持ちが軽くなります。私にとってあの田んぼ道はちょっとした心の支えなのかもしれません。そういえば、数年前に田んぼ道をヤギたちがお散歩するようになったみたいなので、今度会いに行こうと思います。 記憶を呼び起こしてみると、どの記憶も写真のように一枚絵として、その時抱いた感覚とともに思い出されることに気づきました。そういえば、記憶の残り方って人によって違うみたいです。あくまで私調べですが、私みたいに画像として残る人もいれば、ビデオテープのように見聞きしたものを頭の中でそのまま再生できる人、たくさんの情報を言葉として記憶する人もいて、人間ってほんとに不思議。 私は見聞きしたものを映像として記憶できるほどの脳のストレージがないのかもしれませんが、記憶が画像として残るのも悪くないなと思います。よく考えると、私にとって1番大切なところを切り取っているので、中には程よく詳細を忘れてなんかいい感じになっている記憶もありそうですね。何なら多そう。都合のいい頭です。 話がだいぶそれてきました。これ以上続けると話が180°変わってしまいそうだし、何より締め切りを過ぎているのでそろ...

購入してから1ヶ月にも満たない帽子を東シナ海の彼方に置いてきた

初めての作業場日誌を音響として、2度目はwebとして、そして3度目を小道具として書こうとしている、23代の者です。 お恥ずかしながら日誌のテーマである「原風景」という言葉の意味がやんわりとしか分かっておらず、電子辞書で調べましたら、なんと定義が二つ。横転。フギャー
 弊劇団では言葉にならない叫びを動物の鳴き声にして出す、という戯れが一部界隈で流行しているようです。連絡用のSlackにはそのためだけに作られたチャンネルさえあります。内部の者ながら横転ですね。 2回横転して姿勢が元に戻ったので、本題に入ります。
私は情緒が薄くて、内向的でありながらノリで生きているタイプでして、昔からあまり物事について深く考えることがなく、このようなエモいテーマにはそぐわない人間です。なので、一つの風景が強烈な光を放って残るみたいなことはないですね……。 ただ、幼い頃から失敗体験ばかりを記憶する悲しい性であるらしく、自分の場合それは人前に出た時が多くを占めています。
小学生の時やった劇で、頭が真っ白になりセリフを飛ばして長い沈黙を生み出した場面、クラスメイトの前で先生から沢山のダメ出しを受けてマジで消えたいと思った場面、大勢の前の自己紹介にて、これはウケると思って出した話題が全くウケず、真顔の人間だけが並んでいた場面……他にも色々ありますが、その蓄積が一つの大きな負の原風景を創り出し、また更新し続けて、自分のなかに残り続けているのでしょう。 こうして人前恐怖症のまま成長した私は、入舎から現在まで裏方を貫き続けています。もちろん、元から裏方への強い興味があり、表舞台に立つ人を支えることは心から楽しいです。ですが、裏方を貫く理由として先に述べたような「原風景」があることは否めません。 一回ぐらいお芝居と向き合って舞台に立ってみれば、その風景も少しは暖かさを孕んだものになるんですかね。はたまた更に負の方向にベクトルが伸びるだけなのか…。 とにもかくにも、私は今回も非役者ですから、引き続き同期や後輩皆と信頼関係を深め、彼らを支えるだけです。旅行先で出会った帽子とわずか1ヶ月で信頼関係が崩壊し、万物との絆の大切さを身をもって感じている今、より一層そう思います。

るんるん

はじめまして ‼️ 24衣装の人です ‼️ 公演が迫ってきて仕事がやばいですが、今日はテーマ「原風景」ということで心の奥底にあるものにゆっくり思いを馳せてみます。 私にとっての原風景は、「小学3年生の新学期、あたらしくおろした靴を履いて1人で裏路地をるんるんスキップしながら登校する風景」です。 まず新学期というのはつまり春ですね、春は暖かい。昔から冬アンチの私は春のおとずれというだけで心が躍りまくっていたワケです。 そして冬頃に買ってもらって、進級したらおろそうとずっとワクワクしていた靴をやっと履けるという喜び。瞬足的なやつだったと思うんですけど、白のきらきらをベースにうすーいピンク、みずいろ、きいろ、とかのラメラメの星がたくさんちりばめられている女児の夢みたいなやつです。 もうこの2つが揃って上機嫌でないわけがないのです。なので1人でるんるんスキップなんかしちゃっているわけです。1人で登校する時はげんきな番犬のいる家のある裏路地を歩いていたな、毎回毎回吠えられるから3年生にもなればもうなにも思わないのです。 これがどうして原風景かというと、今の自分も心躍る対象top2は季節を感じたときとすきなものを身につけているときだからです。 最近の夏の暑さには毎日キレまくっていますが、それでも朝家を出たときの空気の綺麗さと熱帯夜がだいすきです。春も、秋も。冬もアンチではありますが、冬だなーと感じるのは嫌いじゃないです。 身につけるもの、最近はtpoとか、自分のもつポテンシャルとかを気にして、本当に自分のすきなものを身につけられるときが少ない気がするけど、その分本当にすきなものを身に付けた時は、本当に本当にしあわせになります。常にそうありたいです。 なぜかこの日の記憶が鮮明にいまも頭にあります。もっと小さいときの記憶ももちろんあるけど、原風景といわれたらこの日だなあ、今の自分をいちばんあらわしているな、と思います。 ということで締切の日の0時を過ぎてしまいましたのでそろそろおわりますね!おやすみなさい😪😪😪

我が家

こんにちは制作チーフです。 いざ原風景とは?と聞かれると難しいですね。原風景をググってみると人の心の奥にある原初の風景と出ました。原初の風景......日本人なのでこう、パッと思いつくのはやっぱり田んぼとか、山の風景とかですけどよく考えると「私の原風景」ではない気がします。じゃあ何かと言われると、実家から見える景色がそれなんじゃないかな。 家から見えるのは家の前にある坂と、坂を挟んだ向かいにある古いピンクのアパート、そのアパートの横の道を近くの公園に行くために走る小学生。物心ついた時から見ていたその景色が「私の原風景」と呼ぶにふさわしいでしょう。日常すぎて特に気にしてなかったけれど、やっぱり落ち着くし、旅行から帰ったあとに見ると帰ってきた!!って感じがして好きな風景です。ピンクのアパートには小学校の同級生の祖父母が住んでいて、小さい頃の鍵を忘れて家に入れない私の喋り相手になってくれてたなとか、あの家の駐車場で騒いで怒られたなだとか思い出せることは色々あって、実家を出たら今よりももっとこの風景に対して思うことが増えるんだろうなと思います。地元愛とは不思議な物で、そこまで愛が強いわけじゃないと思っていてもドラマとか映画とかで近所の地名が出ると嬉しいし、アド街で近所が取り上げられてると見ちゃう。案外知ってる店が出ないことに驚いて、一位の店が前を通ったことはあるけど行ったことない店だとへぇ〜行ってみるかと思う。けど次の日には忘れてる。地元愛があるんだかないんだかわからないけどなんだかんだ実家を出ることなく、不満は多少あれどまあ概ね満足できる暮らしができているのはいい「地元」なのかなと思います。 いくら好きでいても風景は変わっていて、いつも通らない道を久々に通ると知らない家が建っていたり、母校の改修工事が始まっていたり。私の原風景だって、実はもうピンクのアパートは老朽化で取り壊された。公園になることが決まったそこは更地になっていて跡形もない。それでもやっぱり思い出に残っているのはその建物があった頃で、ふともうその景色が見れないことに寂しさを感じます。寂しいと思いつつ公園が楽しみな自分もいて、人間って薄情かも。 というか私のスマホ、位置情報のバグでアパートを私の住所だと勘違いしてるけど、公園になった後もこのままなのかなぁ。

「好き」のスタート地点

  みなさんこんにちは、23webチーフです。 劇工舎プリズム第83回公演まで1ヶ月を切りました。 毎回恒例の作業場日誌、今回のテーマは「原風景」です。 原風景、と言われてぱっと思いついたのは、父方の祖父の部屋でした。 スピーカーとアップライトピアノ、レコードやCDとこたつが置いてある、秘密基地のような部屋。 若い頃から音楽好きで、社会人ビッグバンドでギターを弾いていた祖父は、自分の好きな音楽に浸るためにそんな部屋を作ったそうです。 当時2歳か3歳くらいだった私は、度々祖父とこたつに入って、お菓子を食べながら一緒に音楽を聴いていました。 あとは祖父が入っていたバンドのコンサートを見に行ったり、DVDを見たり。 当時は音楽のことなど何も分かっていなかったのですが、祖父の教育(?)の賜物なのか、音楽好き、特に身近にあったジャズやビッグバンドに関しては、「詳しいこと分かんないけどなんか音が好き!楽しい!」という感じの人間に成長しました。 そして大学生になって、サークルでビッグバンドを始めました。 祖父のことをよく知る親戚にその話をすると、ほぼ必ず「おじいちゃんの影響だね~」と言われます。 演劇についても、幼い頃の自分と繋がっていると感じる部分が多々あります。 私が通っていた幼稚園では、事ある毎にクラスで歌やダンス、劇を発表する機会がありました。 そして年長クラスでは、クリスマス会で各クラスで1本の劇を披露するという風習がありました。 全員が役者として出演し、数は少ないものの全員にセリフがあり、必要があれば幕の上げ下げや大道具の移動も園児が行う。 練習は結構厳しくてたくさん怒られたし、当時の自分の演技なんて見れたものではありませんが、笑顔で拍手をしてくれる観客席を見て、嬉しかったことはなんとなく覚えています。 今でも全てが終わって客席を見たらなんとなく安心するし、拍手が聞こえたら幸せな気持ちになります。 あの達成感が好きで、今も舞台に関わることをしているのかもしれない。 祖父は私が中学生のときに亡くなってしまったので、私が高校でも大学でも演劇をやっていることも、大学でビッグバンドを始めたことも知りません。 もう5年も会ってないけれど、もしも今会ってそのことを話しても、意外だとは思われず、「やっぱりな」と笑われるような気がしています。 今私がやっていることは全て、幼い...