ある手帳
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男は机上に放り出してある一冊の手帳を手にとつた。茶色い表紙に短い英字の刻まれた、掌に収まる大きさの手帳である。何故これがここにあるのか、男には判らなかつた。自らこのやうな手帳を買つた記憶もない。手帳と云ふのは凡そ個人的なもので、中身を覗くのは一寸抵抗が無い訳でもないが、周囲に誰もゐない今なら覗いたとて問題なからう。好奇心に駆られてぱらぱらと頁を繰つてみると、
「……優那 又の名をつくつくほし……僕は25歳 老化を感じている……愉快な舞台屋を紹介するぜ!……崇人 神小道具に神シケプリ……柊稀 別名ヒイラギ時々羽田!……さかぐちみれいさん くまがいみおさん こうのひかりさん……」
何やら訳の判らぬ事が書いてあるのみかと落胆するが、それでも読み続けると、ふと、途中から筆跡の異なつてゐる事に気が付いた。それはある人の日記のやうで、丁寧に日付とその日あつたであらう出来事が書いてある。成程これは面白いと、男の目は手帳に綴られた稍荒い字を追つていく。
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4月5日
今日は夏公の作演会議。司会は後輩舞監がやっていた。驚くべきことに、僕ではない。僕が舞監をやっていた時代はとうの昔に終わってしまった。彼女、上手くできなかったなぁ、とか、3日に1回くらいは思ったりしてるんだろうか。彼女が僕に向けて発する言葉の頻度は、すみません、ありがとうございます、が一番多い気がする。気のせいかな。去年の今頃の僕はどんなだったっけ。まあ、人に頼ることと自立していることは両立し得ると思うんです。困ったらどうぞ僕を頼って下さい。……いつか、君が舞監でよかったって、言ってもらえるといいね。
4月14日
今日は先代舞監にご飯に連れて行ってもらった。僕が去年の夏公で先輩に送った言葉は今でも先輩の中にちゃんと残っているらしく、それが結構嬉しかったりした。あなたはもう覚えてないでしょうけど、新公の仕込み図を見せた時に「仕込み楽しみだな」って言ってくれたこととか、新公の感想フォームで舞台の欄に「ただただ、よく頑張ったね」って書いてくれたこととか、夏公バラシ後にSlackで「何度でも言う、らしを舞監にしたのは大正解だった」って言ってくれたこととか、秋公の感想フォームで「私は賽銭箱の後ろにある柵が一番好き」って書いてくれたこととか(あれ作ったの僕です)、全部覚えてますよ。
5月3日
スタ会が始まった。あとひと月で引退か。今回の舞台美術はほしです。これで23舞台屋は全員舞美をやったことになるね。最後だからな、頑張れほし。そして今回の舞台のど真ん中に立つ回転扉ははねだくんが担当。彼は23舞台屋の中で一番技術力があるから、信頼できますね。あ、別にほしが信頼できないって訳じゃなく。ほしは安定と信頼の舞台チーフだから。
5月10日
今日は入舎してくれた新人のために舞台講習があった。24舞台屋が教えていた。彼らもよく1年間頑張ったよね、色んなものが作れるようになっちゃってさ。立派な舞台屋だよ。こんな僕だけど、先輩として慕ってくれてありがとう。なんか、ずっと思ってたんだけど、君たちのキャラクター勝手に作っちゃってごめんね。ところで今日、23舞台屋は作業場日誌で詩を書くことになった。なったよね? なったと信じて、詩を書いて付け足しておこう。詩というか、歌だけど、でも同じテーマで書くなって言われたから、許されるはず。
たまさかに 集ひし我ら 白雲の 此方彼方に 立ち別れ わびしかるらむ この岐路は これや限りの 別れかと 思ふ涙は 袖濡らし 心に染みて 乾くまじ 逢はむ日までに さればこそ さらに行くべき 心地せね さりとも我は 頼むかな なほ逢うことを 雨降れば 行く道は濡れ 風吹けば 花は散らめど 出づる日は みな行く道を 照らされり 駒場に集ふ 我らみな 結びし縁 松が根の 絶ゆることなく 万代までに
5月12日
叩き場に行ったら後輩舞監に会った。新人の子も来てくれた、嬉しいね。帰りに後輩舞監とお話ししたら、やっぱり夏公が大変そうだ。まあ、先輩って怖いし面倒だし、疲れるよね、わかる。なんとか無理せず、やり切れるといいなぁ。ああ、今回の作業場日誌テーマは「ラブレター」だった。ラブレターって言われてもな、何書こうかな。せっかくだし、頑張ってくれてる後輩舞監宛に、エールを送る手紙でも書いてみようかな。この日記の一番後ろに挟んでおこう。
5月18日
スタ3の日、23舞台屋Tシャツが届いたので、今日2人にお披露目した。みんなかなり喜んでくれました。いつかみんなで着て写真でも撮りたいね。2人が喜ぶ顔を想像してお絵描きするのはとても楽しいのです。もう引退だけど、記念品ができて良かった。君たちと同期であったこと、君たちと一緒に叩きをした思い出は、いつまでも忘れずにいたいね。
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ほし、はねだ──なんだらう、耳馴染のある言葉だ。眼鏡を掛けた棒人間、笑ふ星、田の字に羽のついたもの、それに蛸、犬、木、蝉──。俄に男の脳裏に浮かんだ画像たちの、それらが何を表してゐるのか、最早男には判らぬ、しかし愛着を感じてゐるから不思議だ。そしてこの事を、この日記を読んでゐる最中に思ひ出したのも又、男にとつて不思議だつた。
頁を捲ると、そこから先は白紙だつた。日記はここでお了いだ。それでも暫く手を止めずにゐると、最後に手紙が挟まつてゐた。ちやんと封をした手紙である。手紙など尚更個人的なもので、中身を覗くのは殊に罪の意識に苛れるが、この日記を読んだからには、この手紙も読まねばならぬ、と云ふをかしな使命感のやうなものが灯り、俄然興味が湧いてきて、男は封を丁寧に開けた。
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※※※※へ
君は真面目で頑張り屋さんだから、いつも他人のことを第一に考えて、気を配っていますね。その優しさは、立派なものだと思います。ちゃんと自愛もして下さいね。
夏公演で※※をやるのは大変だよね。※※※※※の間で板挟みで、色んなことを考えちゃって、碌に息抜きもできないし、何もせずぼーっとしたい時だってあると思います。君にはあるかな。※※にはありました。
そんな中でも、君が頑張って※※をやってくれたから、※※はちゃんと公演を打って、楽しく※※※を作って、※※することができます。頑張ってくれて、ありがとう。※※※の後、※※※※だから※※する人たちに※※※※の、※※もやるんだろうけど、※※※※をもらって送り出されるの※※※※です。※※※※※※※※※※※、君は※※※※※割と※※※くれていて、とてもありがたい限りです。君が※※※※※※※。
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そこまで読んで、男は手紙に落としていた視線を上げた。又視線を落として、その続きを読む。
全て読み終えて、又視線を虚空に彷徨はせ、暫く考へた。様々なものが脳裏に浮かんでは消えた。
俄に、男は両の親指と人差指で手紙の真中辺を摘み、胸の高さまで持上げた。すると、ふつと溜息を吐き、嘲笑にも似たやうな悲しげな微笑を口元にたたへ、一瞬の躊躇を見せた後──。
──右手を勢ひ良く下し、手紙を引き裂き、破つて捨てた。
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