口下手さとIf I were
ちょっと久しぶりに書きます。23どめです。
今回も素敵なテーマをいただいておりますね!ラブレター。うむ。私は、メッセージカードとか、手紙とか、寄せ書きとか意気込みとかスピーチとか、そういう自分の想いを誰かに伝えるもの(広くとらえればラブレター!)を出力するのが、なんとなく下手です。文章力に自信がない、というのとはまた違うんですよね・・・こう、私やほかのだれかに向けられた周りの人たちの言葉を読むと、愛の深さ、想いの強さを感じてぐっとくることがとても多いのですが、なんだか自分の言葉はすわりが悪くて、本当の気持ちじゃないみたいな、上滑りして聞こえるような、そんないたたまれない感覚になってしまいます。体裁だけは整っているけれど、うーんと思ってしまう。自分の想い自体は熱いものもあるはずなのに、言葉に熱をこめきれないのはなぜなのでしょうか・・・。
Twitterer(トゥイララー)なので言葉を紡ぐこと自体は好きですし、口下手というほどでもなく、単なる感情表現はむしろ得意なほうのはずなのですが、誰かに手向ける言葉になったとたん、友人も、先輩も、恋人ですらうまくいかない。プレゼント選びとかも自信ないので、誰かに何かを贈るということ自体向いていないのかもしれないです。それなのに、たくさんの人が私に愛を込めた言葉や贈り物をくれます。彼らのくれたものは全部素晴らしく完璧に思えるのに、自分からは大したものを返してあげられないなぁと勝手に罪悪感を覚えちゃったりして。そうさ100%テイカー。
そんな私でも、愛にあふれているとかまっすぐだとかという評価をいただけるらしいです。ある意味まっすぐすぎてきれいに飾った言葉を使えないということなら、それもそれで自分の持ち味と呼べるのかもしれません・・・なんて、簡単に悩むのをやめようとしてしまうあたり、やっぱり人のくれる誉め言葉にありがたく乗っかって生きているようです。ちょろい。
ラブレター。普通に黒歴史の部類ですが、高校のとき心底執着していた先生がいて(世界はそれを恋と呼ぶんだぜ)、ご異動されるときに想いをつづったみちみちの便せん2枚を山盛りのプレゼントとともに贈りました。重い。デジタルで下書きしたので今でもGoogle Driveで閲覧可能なのですが💀、読み返してみると、恥ずかしさと同時になぜか誇らしさが芽生えてくるんです。あの時の私ってこんなにたくさんの想いをちゃんと言葉にしたんだなと、都合よくほめてあげたい気持ちになるんです。
だから、というのもあれですが、最後くらいは、数年後見返してちょっと恥ずかしくもうれしくもなるようなラブレターを書きたいな、と思います。表現ってそういうものだし。
書いているうちに何度もいややっぱりこんなのキモいかなって投げ出そうとしたけれど、不格好でも私の愛です。
みんなへ
何だかんだ2年が経ってしまいました。
会えない期間も長いからなのか、まばたきする間に過ぎていってしまった。
みんなは一人一人信念があって、表したいものがあって、揺るがない「好き」があって、話すのが本当に楽しかった。一緒に熱く意見を戦わせながら美しい作品を追求していくのが本当に楽しかった。
私は遅刻ばっかだし、機嫌損ねるとめんどくさいし、自分のことしか考えてないし、こうやって自虐的なことを平気で言っちゃうし、おどけてばかりのくせに自分からは話しかけにいけないし、みんなと肩を並べるのがちょっと申し訳なくもなる。だけどもそれでも、仲間に数えてくれて嬉しかった。座組にいるときは、いつでも自己有用感をもらえて。優しさに溢れたこういう環境って決して多くはないはずで、居心地が良かったんです。
もっとみんなとちゃんと関わっておけばよかった、と思っています。ちゃんと?深く、多く、でしょうか。サークル外でも、でしょうか。
ただの、ちょっとヒクツな妄想なのだけれど。
もし私が東大生だったら、彼のように語学に打ち込んで、肩を並べて講義が受けられたかもしれない。寡黙な横顔の奥で、創造的なアイデアと美しい言葉が渦巻くその頭の中を、もう少したくさん聞かせてもらえたかもしれない。
もし私が総務部だったら、頼れる彼女の仕事をそばで支えられたかもしれない。全ての音響員のために、チーフとしても総務部としても本当にたくさん働いて私たちを支えてくれたあの子の、左腕くらいにはなれたかもしれない。
もし私が理系だったら、彼ともっと出くわしていたかもしれない。二言三言、今日こそちゃんとご飯食べられた?なんて交わすだけでもきっと安心できて、離れたところで難解な講義を聞いている様子もそっと見守れたのかもしれない。
もし私が情報科学科だったら、彼女と一緒にしかめっ面でパソコンを覗き込んでいたかもしれない。ネイルを輝かせるクラスメイトたちに紛れて、あの子にも今日もおしゃれだね、あなたらしいねなんて言っていたかもしれない。
もし私が駒場に住んでいたら、通学路で彼と何でもない話をしながらぶらぶら歩いていたかもしれない。昼下がりの仕込みにも夜遅くのシュートにもあんなふうに軽装で向かって、今日ちょっとだるいねなんてだべっていたかもしれない。
もし私に画力があったら、彼女とアイデアを出し合って絵を描いていたかもしれない。やっぱり上手いね、素敵だねなんて、独創的なあの絵に感嘆しながら、私も頑張ろう!と美しさを一緒に模索し続けていたかもしれない。
もし私が心理学科だったら、もっと彼女と毎日のように会えたかもしれない。眠そうなあの子を隣で気遣いながら、なんだかんだの優秀さに舌を巻いたり、それでいておっちょこちょいなところに頬を緩ませていたかもしれない。
もし私がジャズに明るかったら、彼女と兼サー先の話ができたかもしれない。ステージでの晴れ姿を観に行って、あんなに多彩な演技ができるのにさらにこんなことまでできちゃうなんて、やっぱり多才だなんて感嘆したかもしれない。
もし私が戯曲を書けたら、彼と演劇について色々と語り合えたかもしれない。演劇を愛していて、視野も広く慈愛にあふれた彼の想いを、「書く側」として受け止めて、ひそかに対抗心を燃やしていたかもしれない。
もし私が人格者だったら、彼女を困らせなくて済んだかもしれない。いつでも責任感があって、サークルのために何でもしてくれた素晴らしい主宰の、助けにはなれなくともせめて迷惑はかけずに、存在してくれてありがとうとまっすぐ伝えられたかもしれない。
もし私が根っからの役者だったら、彼女の素敵な演技をもっと見られたかもしれない。全ての人を虜にするあの芝居を、本公演でもプロデュースでも、共に舞台に立ちながら間近で楽しめたかもしれない。客として見るのも、それはそれでいいのだけれど。
もし私のキャパが大きかったら、彼女とタッグを組んで兼サー先でも運営に回れたかもしれない。こっちでもあっちでも、あの子はいつでも全てが安定していて仕事ができて、存在だけで助けになって。私も助けになりたかった。
もし私の頭の回転が速かったら、彼女の言葉に淀みなく応えられたかもしれない。思慮深く、世界を見つめ続け、言葉を紡ぎ続ける彼女に呼応して、隣で支えながら考えを共有して、言葉を返すような、そんなやりとりもできたかもしれない。
タラレバにはキリがありません。でも、決して今の状態が悪いとか、不満だとか、そうとは言い切れません。目の前の現実で起こるみんなとの関わりも、決して悪いものではないな、とも思います。結局何が言いたいの?という感じかもしれませんが、これが私なりの、妄想ばかりはかどって行動に移せない私なりのラブです。どうか、心の隅において聞き流してください。
願わくは、引退した後も互いが互いを愛し続けられますように。
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