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先輩へ、同期へ、後輩へ。

 僕の舞台監督としての原風景は、やっぱり新人公演ですね。あの時は舞台監督になったからすごく頑張ろうとしてたけど、舞台監督だからとか、舞台監督なのにとか、そう思い込んで勝手に自分の首を絞めていたらしい。でも終わってみたら、拙いけどなんだかんだ舞台監督をやれていて、あれはあれでいい思い出。  そのあとはすぐに新歓公演。3劇の中で舞台は一番凝っていた。まあ作演が舞台の人だったし。彼のアイデアを実際に形にしていくのは楽しかった。小屋入りには頼もしい先輩方がいて、仲良くなった同期もいて、楽しかったね。  そして夏公演。いやぁしかし大変な公演だった。初っ端から舞台美術を決めるよって時にトラブった。先代舞台監督の涙を見て、上の代のことをちょっとよく知りすぎちゃって、僕まで苦しくなった。でも先輩にとってはプリズムで最後の公演だし、こんな状況で終わってほしくなかった。僕が舞美をやれば全て解決。1人で叩きまくって周りに心配され、僕自身も色々あって気落ちしててちょっと辛かった。僕は演劇の経験がないし、周りの言うことが全て正しいような気がして1人になりたくなる時もあったし、やりたくて舞美やってるわけじゃねえよって言いたくなる時もあったし、叩き場で1人何もせずにボーっとしたり横になって死んでいたりしたこともあった。  まあ先輩と叩いたのも、後輩に色々教えながら一緒に作っていったのも、楽しかった。最後には僕が尊敬する先輩の綺麗な涙を見て、花を渡して送り出したし、よかったかな。先輩は本当にすごい人だと思う。あの人は1年間逃げずに舞台監督をやり切った。  あなたのような舞台監督の後を継ぐことができて、光栄でした。  秋公演になって、いよいよ僕も舞台監督をやるのは最後になった。今の僕は、いくらかちゃんと舞台監督をやれてるんではなかろうか。まあ及第点かな。僕は1年間頑張った。本当によく頑張ったよ、うん。舞台監督、なんだかんだ楽しかった。  僕が舞台監督を頑張れたのは同期のおかげだと思う。特に同期の舞台屋には大変お世話になりました。今回の作演は舞台屋同期で、もう1人の舞台屋同期も稽古場にいるから、今回は叩き場に僕しか23舞台屋がいなかった。そうなって初めて気づいたけど、舞台屋同期がいるのといないのとでは、僕のやる気が全然違う。やっぱ同期がいると叩きは100倍楽しいよね。  作演は忙しいながらもたまに叩き...

まだ18歳のくせにいっちょ前に演劇を語る

はじめまして、24代舞台セクション員の中で1番おでこが広い人です。 さて、今回のテーマは「原風景」だそうです。考えた末、「その人に大きく影響を与えている幼少期の視覚的な記憶」を広く原風景と捉えるのが私にはしっくりきました。 とすると私の原風景は、母が「からすのパンやさん」という絵本を読み聞かせてくれている光景です。4歳頃、毎日のようにこの本を読んでとせがみ、全文丸暗記していました。 そして成長した私は、同じ小説を10回以上読み返し、同じ曲を2時間くらいリピートで聴き、好きなドラマは録画して5回は見ます。内容を知っているものや結末がわかっているものに安心を求めてしまう幼さからなかなか抜け出せません。 しかし演劇は1回きりです。同じお芝居を繰り返し上演するとしてもハプニングやアドリブはつきもので、役者の調子にも左右されます。 脚本を書いてみたかった15歳の私は高校で演劇部に入りましたが、部員が自分入れて2人(しかもその1人は「セリフ無しなら出演してもいい」とか吐かす)。 それでもなんとか1度大会に出場し、舞台をつくること、舞台に立つことの魅力に圧倒されました。幕がミスで降りず、もう1人の彼とアドリブで芝居してつないだ1分間は、心から震えた。先がわからない一度きりの中で今できる最高のものを目指す面白さを知ることができました。 演劇はきっとこれからも、私の変化のきっかけになると思います。大人になっても時折演劇を感じられるくらいの距離にはいたいです。とりあえず今は、プリズムでのびのびと演劇を楽しみながら、たくさん考え、経験を積み、成長していけたらと思っています。 しかしのびのびとは言ったものの、今回は構造物が多いうえに舞台美術(私)がへっぽこだったため舞台屋は緊迫しています、とほほ 初めての作業場日誌、書くのが楽しすぎて今夏くらい長くなってしまったので、これくらいにします。 最後に、たくさん助けてくださったRS先輩とSBちゃんに大きな感謝を申し上げます。

八月、少女像

24の照明員です。初めて作業場日誌を書かせていただきます。  原風景と言われると難しいのですが、幼少期に祖父母に連れられて行った、東北のとある美術館での光景について書こうと思います。  当時私の家では、毎年お盆前後の2週間ほどを東北の母親の実家で過ごす習慣がありました。幼い私の退屈を危惧してか、その間祖父母は私を色々なところへ連れて行ってくれたのですが、車で40分ほどのところにある美術館もそのうちの一つでした。いくつかの展示室に郷土の芸術家の作品を集めた小さな美術館でしたが、その中で今もなお強く印象に残っているのが、ブロンズ像の展示室です。  適切な呼称が分からず展示室と書きましたが、実態は他の展示室同士を繋ぐ通路のようなスペースで、壁際にブロンズの少女像がいくつか並べられているにすぎません。しかし一つ大きな特徴があり、ちょうど少女像が見つめる方向の壁が一面ガラス張りになっていて、外から光が差し込むようになっているのです。八月の強い日差しがガラス越しに乱反射して、立ち並ぶ少女像に神秘的な輝きを与えていたのが印象的で、子供ながらに引き込まれたのを覚えています。幼い頃の私は重度の飽き性だったので美術館などを楽しめるようには思えないのですが、そのときは全く飽きずにいたのも今思うと不思議だったなと思います。  その後の私は10年ほど芸術と無縁の生活を送っていたのですが、高校生のときに突如として美術館巡りに目覚め、一時期は月に一回上野に赴く生活をしていました。そして大学入学後は思いつきで劇団に入会し、照明セクションで舞台や役者を照らしたり照らさなかったりする仕事をしています。幼少期に見た少女像の輝きがこのどちらか(あるいは両方)に影響を与えたのかはわかりませんが、『原風景』という言葉を頭に浮かべながら考えてみると、少なくともその手のものを楽しむ素地は昔からあったのかなぁとも思えてきます。  これで私の原風景の話は終わりです。なぜ美術館巡りが好きかという話をここから延々とし続けても良いのですが、あまりにも蛇足すぎたので長考の末割愛させていただきます。  24の照明員がお送りいたしました。

Primal Vision

 こんにちは、23代映像チーフです。 「走馬灯」というものがあります。死に際に見る人生のプレイバックみたいなものですが、そこで映る景色こそが「原風景」なのだと思います。死に際とは言わずとも私は今(納期が)ギリギリな状況にあるので、過去に思いを馳せやすい具合となっています。(追記:このパートを書いていた当時の話です。納期はなんとかなりそうですが日誌は締切過ぎてます。ごめんなさい。)  どの原風景について話そう。原風景は決して一つに限らず、その人間がいる(いた)世界の数だけ原風景があるのではないかと思います。かく言う私もそうです、というか私がそうだから言ってるんですが。…となるとどの原風景を選ぶかって話になりますが、自分の原風景を語るのってまあまあな自己開示なんです。ただでさえ幼少の記憶は朧げなわけですから、下手に選んで下手に書けば見た夢の内容を話すかの如く自己満足な文章になりかねない。でもって、この日誌をチラ見はするであろう座組の皆さんにも「へー」と思ってくれるようなことを書きたい。(でないと書く甲斐がない。)というわけで、この日誌では「プリズムで映像に入ったきっかけの原風景」について話します。  あれは母校(中高一貫校)に入学して2日目の出来事でした。その日は1学期の始業式で、私は同学年に知り合いが0人だったので結構緊張してたはず。始業式が一通り終わると「文化祭実行委員長の発表」に演目が移りました。母校はGWに文化祭をするので入学したばかりの中1は客として参加することになります。私は文化祭はおろか説明会に行った記憶すらないので(それってどうなの?という話はさておき)文化祭の話は完全に寝耳に水でした。「なんか始まったぞ」と私が状況を飲み込んでいる間に実行委員長がスローガンの発表を宣言すると、後方にいる上級生たち(1000人以上)から熱狂の雄叫びが湧き起こりました。その場の雰囲気に呑まれている私を差し置いて、客席は暗転し壇上正面の壁がプロジェクターの光に照らされました。  ここまで前置きです。  突如として鳴り響く爆音のEDM。ギラギラと明滅し出すスクリーン。エフェクトがバチバチに効いた映像。脳がギリギリついていける位の情報量。...そこで流れたのは「スローガン発表のPV」でした。始業式は講堂で行われていたので音量と光量は映画館並みで圧倒的でした。(目と耳が少し痛かった...

今は外出したら一刻も早く家に帰りたいです

24音響セクション員です!今回の公演で初めて音響に入りましたが、作業場日誌を書かせていただくことになりました。拙い文章ですが、少々お付き合い下さい。 今回のテーマが「原風景」ということで、今よりずっと幼い頃に思いを馳せて、何が思い浮かんでくるかなぁと試してみた結果、ある場面がバッて印象に残っているわけではないけれど、おばあちゃんといた思い出が一番風景として自分の中に残っていて、「原風景」と言うに相応しいのではないかと気づきました。 私の両親は共働きで、幼稚園に行くときはおばあちゃん家に行ってそこから通園バスに乗り、幼稚園が終わったらおばあちゃん家に帰る。小学校に進学しても然り。みたいな生活を送っていました。 私は放課後に一緒に遊ぶような友達は残念ながらいなかったので、おばあちゃんとお絵描きしたりパズルしたりドラマみたり、沢山の時間をおばあちゃんと過ごしました。 おばあちゃんは動物好きで、犬や猫をたくさん飼っていて、その子達ともたくさん過ごしたな。仲良くなれる子もいれば全然触らせてもらえない子もいて、私のこと好いてくれるように一生懸命だったな。おばあちゃん家の裏は竹林になってて、そこに秘密基地作ろうとしたり野良猫を見つけてついていったり、そんなことも思い出せる。 私は本当におばあちゃんに懐いていて、親が帰ってきても自分の家に帰りたくない。おばあちゃん家にいるんだ。と泣いてせがんだそう。そんな私に親は「じゃあおばあちゃん家の子になれ!」と怒ってたみたい。両親ごめん。でもそう何回も何回も聞かせないでよ恥ずかしい。 そんなおばあちゃんと、おばあちゃん家での思い出が私の幼少期の記憶の半分以上を占める気がするよ。 だから辛くなったとき、心の中でおばあちゃんに助けを求めちゃうのかな。もう一度あのあたたかさに包まれたいと願ってしまう。 昔の記憶ってなんでこんなにキラキラしているんだろう。 放課後に遊ぶ友達がいなかったって簡単に言ったけれど、私の中でそれって結構コンプレックスでした。みんなは放課後学校に行って遊んだり、一緒に誰ん家でゲームしよって約束したりしてるけど、私そんなに仲良い子いないな。なんなら休み時間だってひとりでブランコしたり泥団子作ったり。羨ましいな私も遊びたいな。そんな感情いっぱいでした。 でも今となってはおばあちゃんと遊んだ記憶がとっても色濃く私の中に残ってキラキラ...

ご飯が炊けるまで暇なので

はじめまして、24のしがない音響員です。 原風景がテーマということで、今の私を形作るものは何だろうと考えてみました。 まあ飽き性なのでこれと言って続けているものもなく、一応音楽はずっと好きですが、一番長く続けたであろうピアノさえ高校受験を機にやめてから弾くこともほぼなくなっているのですから、我が物顔で語ることなどできません。 何かないものかとパソコンに文字を打ち込みながら唸っていましたが、途中で、あ、これだ、と思いました。 私は文章をつづることが好きです。 小学生のころから本が好きだったのですが、いつだったか、クラスメイトが「お話を書いてみたんだ」と話している声が耳に入りました。 図書委員会委員長になったり図書館に通いつめたり、読むことはずっと大好きでしたが、「自分で物語を紡ぐ」という発想がなかった当時の私にとって、「物語は自分で生み出せるものだ」と感じたのは確かな衝撃でした。いつかは「作る側」に行きたい、と思うようになったのもその時だったと記憶しています。 小学生のころは自由帳に鉛筆で、中学生のころは大学ノートにシャープペンで、高校生のころはスマホのワードアプリで、そして今はこうやってパソコンに向かって、私は文をつづってきました。 誰に読んでもらうでもない自己満足の拙文で、行き詰まって完成してないものもたくさんあるのですが、書きたい、と思う気持ちはあの時から変わらず私の心にあります。 大学のレポートはなかなか書き進められませんでしたが、この「書きたい」という気持ちを大切に、これからも文をつづって、生涯を通した趣味になったらいいなと思う今日この頃です。就職するとき、作る側の分野に行けたりしたら最高ですね。努力しなくては。 そろそろご飯が炊けそうなので、この辺で締めさせていただきます。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

都合のいい頭

 はじめまして。初めての作業場日誌は、原風景についてお話しすることになりました。原風景、げんふうけい…。 げんふうけいって、なんだろう。よくわからない何かについて話すのはなかなか難しいものです。ただ、今まで考えてこなかったことについて考えるのは楽しいので、このような機会をくれた作演出さんに感謝ですね。 みんなの作業場日誌を読んでいると、原風景はその人の原点とも言える風景で、どこか懐かしさを感じるもののようです。この場合の懐かしさは、良し悪し関係なく「こういうこともあったな」という感覚なのでしょうか。 そうなると、私の原風景はどこまでも続く田んぼ道になりそうです。田んぼの畦道からは兄とどんじゃんけんをして時に田んぼに足を突っ込み泥だらけになって怒られた記憶が、一面雪の積もった真っ白な田んぼからは家族で手足をパタパタさせてスノーエンジェルをたくさん作った記憶が、田んぼの横を通るでこぼこ道からはマラソン大会でなぜかいい成績を残し、炊き出しの豚汁がものすごく美味しく感じた記憶などが蘇ってきます。蘇る記憶はいいものから悪いものまでさまざまですが、どの記憶の田んぼもなぜかきらきら光っていて、あの田んぼ道を思い出すと少し気持ちが軽くなります。私にとってあの田んぼ道はちょっとした心の支えなのかもしれません。そういえば、数年前に田んぼ道をヤギたちがお散歩するようになったみたいなので、今度会いに行こうと思います。 記憶を呼び起こしてみると、どの記憶も写真のように一枚絵として、その時抱いた感覚とともに思い出されることに気づきました。そういえば、記憶の残り方って人によって違うみたいです。あくまで私調べですが、私みたいに画像として残る人もいれば、ビデオテープのように見聞きしたものを頭の中でそのまま再生できる人、たくさんの情報を言葉として記憶する人もいて、人間ってほんとに不思議。 私は見聞きしたものを映像として記憶できるほどの脳のストレージがないのかもしれませんが、記憶が画像として残るのも悪くないなと思います。よく考えると、私にとって1番大切なところを切り取っているので、中には程よく詳細を忘れてなんかいい感じになっている記憶もありそうですね。何なら多そう。都合のいい頭です。 話がだいぶそれてきました。これ以上続けると話が180°変わってしまいそうだし、何より締め切りを過ぎているのでそろ...

購入してから1ヶ月にも満たない帽子を東シナ海の彼方に置いてきた

初めての作業場日誌を音響として、2度目はwebとして、そして3度目を小道具として書こうとしている、23代の者です。 お恥ずかしながら日誌のテーマである「原風景」という言葉の意味がやんわりとしか分かっておらず、電子辞書で調べましたら、なんと定義が二つ。横転。フギャー
 弊劇団では言葉にならない叫びを動物の鳴き声にして出す、という戯れが一部界隈で流行しているようです。連絡用のSlackにはそのためだけに作られたチャンネルさえあります。内部の者ながら横転ですね。 2回横転して姿勢が元に戻ったので、本題に入ります。
私は情緒が薄くて、内向的でありながらノリで生きているタイプでして、昔からあまり物事について深く考えることがなく、このようなエモいテーマにはそぐわない人間です。なので、一つの風景が強烈な光を放って残るみたいなことはないですね……。 ただ、幼い頃から失敗体験ばかりを記憶する悲しい性であるらしく、自分の場合それは人前に出た時が多くを占めています。
小学生の時やった劇で、頭が真っ白になりセリフを飛ばして長い沈黙を生み出した場面、クラスメイトの前で先生から沢山のダメ出しを受けてマジで消えたいと思った場面、大勢の前の自己紹介にて、これはウケると思って出した話題が全くウケず、真顔の人間だけが並んでいた場面……他にも色々ありますが、その蓄積が一つの大きな負の原風景を創り出し、また更新し続けて、自分のなかに残り続けているのでしょう。 こうして人前恐怖症のまま成長した私は、入舎から現在まで裏方を貫き続けています。もちろん、元から裏方への強い興味があり、表舞台に立つ人を支えることは心から楽しいです。ですが、裏方を貫く理由として先に述べたような「原風景」があることは否めません。 一回ぐらいお芝居と向き合って舞台に立ってみれば、その風景も少しは暖かさを孕んだものになるんですかね。はたまた更に負の方向にベクトルが伸びるだけなのか…。 とにもかくにも、私は今回も非役者ですから、引き続き同期や後輩皆と信頼関係を深め、彼らを支えるだけです。旅行先で出会った帽子とわずか1ヶ月で信頼関係が崩壊し、万物との絆の大切さを身をもって感じている今、より一層そう思います。

るんるん

はじめまして ‼️ 24衣装の人です ‼️ 公演が迫ってきて仕事がやばいですが、今日はテーマ「原風景」ということで心の奥底にあるものにゆっくり思いを馳せてみます。 私にとっての原風景は、「小学3年生の新学期、あたらしくおろした靴を履いて1人で裏路地をるんるんスキップしながら登校する風景」です。 まず新学期というのはつまり春ですね、春は暖かい。昔から冬アンチの私は春のおとずれというだけで心が躍りまくっていたワケです。 そして冬頃に買ってもらって、進級したらおろそうとずっとワクワクしていた靴をやっと履けるという喜び。瞬足的なやつだったと思うんですけど、白のきらきらをベースにうすーいピンク、みずいろ、きいろ、とかのラメラメの星がたくさんちりばめられている女児の夢みたいなやつです。 もうこの2つが揃って上機嫌でないわけがないのです。なので1人でるんるんスキップなんかしちゃっているわけです。1人で登校する時はげんきな番犬のいる家のある裏路地を歩いていたな、毎回毎回吠えられるから3年生にもなればもうなにも思わないのです。 これがどうして原風景かというと、今の自分も心躍る対象top2は季節を感じたときとすきなものを身につけているときだからです。 最近の夏の暑さには毎日キレまくっていますが、それでも朝家を出たときの空気の綺麗さと熱帯夜がだいすきです。春も、秋も。冬もアンチではありますが、冬だなーと感じるのは嫌いじゃないです。 身につけるもの、最近はtpoとか、自分のもつポテンシャルとかを気にして、本当に自分のすきなものを身につけられるときが少ない気がするけど、その分本当にすきなものを身に付けた時は、本当に本当にしあわせになります。常にそうありたいです。 なぜかこの日の記憶が鮮明にいまも頭にあります。もっと小さいときの記憶ももちろんあるけど、原風景といわれたらこの日だなあ、今の自分をいちばんあらわしているな、と思います。 ということで締切の日の0時を過ぎてしまいましたのでそろそろおわりますね!おやすみなさい😪😪😪

我が家

こんにちは制作チーフです。 いざ原風景とは?と聞かれると難しいですね。原風景をググってみると人の心の奥にある原初の風景と出ました。原初の風景......日本人なのでこう、パッと思いつくのはやっぱり田んぼとか、山の風景とかですけどよく考えると「私の原風景」ではない気がします。じゃあ何かと言われると、実家から見える景色がそれなんじゃないかな。 家から見えるのは家の前にある坂と、坂を挟んだ向かいにある古いピンクのアパート、そのアパートの横の道を近くの公園に行くために走る小学生。物心ついた時から見ていたその景色が「私の原風景」と呼ぶにふさわしいでしょう。日常すぎて特に気にしてなかったけれど、やっぱり落ち着くし、旅行から帰ったあとに見ると帰ってきた!!って感じがして好きな風景です。ピンクのアパートには小学校の同級生の祖父母が住んでいて、小さい頃の鍵を忘れて家に入れない私の喋り相手になってくれてたなとか、あの家の駐車場で騒いで怒られたなだとか思い出せることは色々あって、実家を出たら今よりももっとこの風景に対して思うことが増えるんだろうなと思います。地元愛とは不思議な物で、そこまで愛が強いわけじゃないと思っていてもドラマとか映画とかで近所の地名が出ると嬉しいし、アド街で近所が取り上げられてると見ちゃう。案外知ってる店が出ないことに驚いて、一位の店が前を通ったことはあるけど行ったことない店だとへぇ〜行ってみるかと思う。けど次の日には忘れてる。地元愛があるんだかないんだかわからないけどなんだかんだ実家を出ることなく、不満は多少あれどまあ概ね満足できる暮らしができているのはいい「地元」なのかなと思います。 いくら好きでいても風景は変わっていて、いつも通らない道を久々に通ると知らない家が建っていたり、母校の改修工事が始まっていたり。私の原風景だって、実はもうピンクのアパートは老朽化で取り壊された。公園になることが決まったそこは更地になっていて跡形もない。それでもやっぱり思い出に残っているのはその建物があった頃で、ふともうその景色が見れないことに寂しさを感じます。寂しいと思いつつ公園が楽しみな自分もいて、人間って薄情かも。 というか私のスマホ、位置情報のバグでアパートを私の住所だと勘違いしてるけど、公園になった後もこのままなのかなぁ。

「好き」のスタート地点

  みなさんこんにちは、23webチーフです。 劇工舎プリズム第83回公演まで1ヶ月を切りました。 毎回恒例の作業場日誌、今回のテーマは「原風景」です。 原風景、と言われてぱっと思いついたのは、父方の祖父の部屋でした。 スピーカーとアップライトピアノ、レコードやCDとこたつが置いてある、秘密基地のような部屋。 若い頃から音楽好きで、社会人ビッグバンドでギターを弾いていた祖父は、自分の好きな音楽に浸るためにそんな部屋を作ったそうです。 当時2歳か3歳くらいだった私は、度々祖父とこたつに入って、お菓子を食べながら一緒に音楽を聴いていました。 あとは祖父が入っていたバンドのコンサートを見に行ったり、DVDを見たり。 当時は音楽のことなど何も分かっていなかったのですが、祖父の教育(?)の賜物なのか、音楽好き、特に身近にあったジャズやビッグバンドに関しては、「詳しいこと分かんないけどなんか音が好き!楽しい!」という感じの人間に成長しました。 そして大学生になって、サークルでビッグバンドを始めました。 祖父のことをよく知る親戚にその話をすると、ほぼ必ず「おじいちゃんの影響だね~」と言われます。 演劇についても、幼い頃の自分と繋がっていると感じる部分が多々あります。 私が通っていた幼稚園では、事ある毎にクラスで歌やダンス、劇を発表する機会がありました。 そして年長クラスでは、クリスマス会で各クラスで1本の劇を披露するという風習がありました。 全員が役者として出演し、数は少ないものの全員にセリフがあり、必要があれば幕の上げ下げや大道具の移動も園児が行う。 練習は結構厳しくてたくさん怒られたし、当時の自分の演技なんて見れたものではありませんが、笑顔で拍手をしてくれる観客席を見て、嬉しかったことはなんとなく覚えています。 今でも全てが終わって客席を見たらなんとなく安心するし、拍手が聞こえたら幸せな気持ちになります。 あの達成感が好きで、今も舞台に関わることをしているのかもしれない。 祖父は私が中学生のときに亡くなってしまったので、私が高校でも大学でも演劇をやっていることも、大学でビッグバンドを始めたことも知りません。 もう5年も会ってないけれど、もしも今会ってそのことを話しても、意外だとは思われず、「やっぱりな」と笑われるような気がしています。 今私がやっていることは全て、幼い...

成長を急かされている……?

 皆様ご機嫌麗しゅう。お久しぶりです。 夏公演『人と成りては』の宣伝物各種ご覧いただけておりますでしょうか……?! 力作揃いですので「そういや見逃してるな」という方は是非ご覧くださいませ……!! といういつも通りの宣伝を挟んで今回のテーマ"おとな"についてお話をしましょう。 おとな、ね、なるつもりはなかったんです。 なかった。本当に。 おとなになるということの意味をよく考えていた高校時代、「私が大人になってしまったその時は、演劇なんてしてないだろうな」なんて考えていました。 私にとって大人になるということは自我を手放すこと、草臥れる事だと思っているので20歳すぎたらどうやって生きていこうかな……なんて思う日々でした。実際めちゃめちゃ衰えてます。 生活がままならなくなったり、誰かを支える必要があったり、自分のことで精一杯なんて言ってられないことが沢山沢山ありました。それでもまだ私がここにいるのは、演劇を手放せないのは、私がまだ私であるのは、おとなになりきれていないからかなって そう思うと安堵できますわねとそう思う所存。 本当の大人の皆様から見たら「年端もいかぬ若造が何を抜かすか」という気持ちになるかもなんですが、学生の一年一年の流れが過ぎ行く焦燥感ってえぐいので大目に見ていただけると、さいわい。。。 私達22は今公演で引退になります。高校時代の戦友のいるサークルならやっていけるだろうと他大から飛び込んではや2年とちょっと……??? えっマジ???????  何故かね、すごくすごく濃い記憶ばかりなのに1年ぐらいしか経っていないような感覚なんです。なんでだ。 プリ22、本当に色々なことがあって、いろんな人がいて、素敵で素晴らしい仲間達との出来事はどれも忘れ得ない経験ばかりです。沢山成長できたし、本当にいろいろあったけど、ね……!! 思いの外私は同期のみんなが大好きみたいです。きっと引退ってなっても我々同士でこんなことを言い合うこともないだろうからここに書いちゃいます。ゆるしてね。  そんな22の引退公演にもなる『人と成りては』、7月の5日、6日、7日の金土日で上演いたしますので!! 是非!!!!! ご都合あいましたら足を運んでいただけますと幸いです……キャスティング本当に美味しいので是非……!!!!!! っって感じで最後まで宣伝を忘れない22映...

多分幼稚園のころが一番おとなだった

この文章が公開されるときには、自分は21歳になっている。18歳で入ったプリズムにやっと終わりが来る。21歳は立派な「おとな」だと思う。お酒だって飲める、公営ギャンブルもできる。高卒や短大卒の同級生は社会人だ。でも、自分が立派な大人かと言われたら、全くそんな気はしない。 この原因の一つには、サークル活動で楽しかった瞬間というものが、常に幼い行動と共にあったからではなかろうか。思い返してみよう。サークルで楽しかった思い出。 ・叩き場で食べるアイス ・舞台屋で食べるご飯 ・小屋で食べる差し入れ ・総務部と食べる仕込みバラシ中のご飯 すごく健啖家みたいだ。あ、夜のお喋りとか残作も楽しかった。 ただ、やはり思い返してみても、舞監ムーブメントはすれこそ、大人ムーブメントはしてないのではないか。持ち芸が「親の金でドヤ顔奢り」な時点で、私のサークル内立ち位置は明らかだ。というか、私のことを大人という括りで見ているサークルメンバー並びに他劇の友人たちがいるだろうか。 銀髪の大人、碌なもんじゃないと思う。10月になれば、地毛の色に戻す予定だ。そしたら少し、大人になれるだろうか。 上京して、演劇をして、駒場以外の繋がりもできた。そして初めて、生計を立てている職で週に5,6日働く大人、ではない大人の姿を見た。 社会人演劇団体に携わり、演劇で生計を立てるだけではなく、ライフワークとして関わりつづける大人の在り方も知った。 まだ社会人になるまで時間がある。予定では、今年を含めてあと4年。何かしらあれば、5年とかになるかもしれないけども。とにかく、まだ時間がある。駒場小空間を本当に離れるとき、そのときは、この文章を読んで、過去の自分を子どもだと思えるだろうか。少しは思いたい。 22照明チーフは、23代や24代の子たちの未来を灯体で照らしてくれるらしい。じゃあ僕はどうしよう。 ……階段を作ります。壁にぶつかったときに上れる用に。螺旋は嫌だけど。普通の階段なら。あと、叩きの進捗とかヤバいときは呼んでくれたら行きます。と、ここで宣言しておきます。

けど時代はLED

  十代初めの頃まで住んでいた生家は、鬱蒼とした森に建つ、築三百年あまりの小さな古城でした。 城の周辺には家族以外にもいろいろなものが住んでいました。森にはシカやイノシシが、城の地下にはネズミやコウモリ、天井裏では外壁にあいた穴から侵入したアライグマの一家が日夜運動会を開催していました。 そして自分のとなりにも、家族ではない存在がいました。そのひとを仮にAと呼びます。 子供の頃はよくひとりで夜遅くまで留守番をしていましたが、生家での留守番はあまり愉快なものではありませんでした。 昼でも薄暗く陰った森は、夜になると完全に闇に包まれます。目をこらしても何も見えない暗闇が壁をひとつふたつ隔てた先に横たわっている中でひとり家にいるのは、心細いものでした。 また、夜の森ではよく何かが動き回っていて、そのガサゴソという音は壁を通して城の中までよく聞こえてきました。そういった音を聞くたび、何かが城に侵入してきたのかもしれない、と嫌な想像が脳裏をよぎりました。 古い建物なので、ギシギシという家鳴りも頻繁に聞こえてきました。木がきしむ音が聞こえるたび、何者かが部屋に近づいてくる気がして身を固くしていたのを覚えています。 あらゆる音が恐怖に変換される留守番は気が滅入るものでした。そこには得体の知れないものがすぐ近くで息をひそめているような感覚が、いつも静かに横たわっていました。 そのため留守番の時はいつも小さな部屋に閉じこもって、テレビをつけっぱなしにしていました。テレビをつけていれば城や森からの音は聞こえないし、テレビから流れる人の声を聞くと恐怖が少し拭われる気がしたのだと思います。 Aは、そんなふうにひとりで留守番中、テレビを見ている時によく現れました。 現れたとはいっても、Aと自分は特段会話をするわけではなかったし、視線さえ交わることはありませんでした。 テレビを見る自分の傍らで、Aはただ立ったり、座ったり、誰かと話したり、魔法学校で二重スパイとして働いたり、脱税を調査したり、何度も時間を巻き戻して魔女と戦ったりしていました。 Aは姿も考え方も不定形でしたが、変わらなかったのは、Aがいつも自分に元気を与えてくれたことでした。Aは目の前で輝きながらも決して関わることのできない、手の届かない星のような存在であ...

こども

  こんばんは。おそらく3回目の、最後の日誌を書いている22元音響チーフです。今回のテーマは「おとな」だそうです。  私が最近「大人だなぁ」「大人になったなぁ」としみじみ感じたのは、現音響チーフがチーフ業をこなしているところ、23の音響民が、私たちの代が教えていたことを今度は24に教えているところなどを見たときです。  ところで、「おとなになる」って、どういうことなんでしょう。酒が飲める年になった、選挙権を得る年になった、身体が大きくなった、物事を冷静に捉え考えられるようになった、、人によって定義は違うと思います。でも、「おとなになった」と言うとき、そこには「こどもである」ことと対比して、「良くなった」という意味が含まれていることが多い気がします。  でも、子ども(年齢的に)は、大人(同左)が思うよりも、色々なことを考え感じているのではないかと最近思うようになったんです。それは、授業で子どもと大人の関係について考えた時、昔の自分を思い出して、あの時子どもなりに大人に忖度したり、様々な感情を抱いていたりしたなぁと思い出したからかもしれません。またパレスチナのガザでは、大人だけでなく子どももジャーナリストになって、ガザの現状や、侵攻前より数も量も少ないご飯の作り方などを伝えています(パレスチナ解放)。逆に、おとなでも、立派な行動をする人ばかりではない。そこには様々な背景があるとは思いますが。  こどもって、そんなにバカにする存在じゃないよねとも思うんです。  今作のタイトルは、『人と成りては』です(今まで語ってきた「こどももいいよね」みたいに、「人じゃなくてもいいよね」とは書いてません)。個人的にすごく楽しみにしています。いつの間にか、引退公演ですって。今書いていてびっくりしました。時間経つの早すぎません?  これまで大勢の人に出会えたし、お世話になりました。私にとってプリズムは居場所だったと思います。たぶん。非常に感謝しています。  これまで関わってくださった方々、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました!

振袖は赤にしました

 24宣伝美術セクション員です。新人で恐縮なのですが、せっかく担当させていただくのでなんとか書いてみます。  さて、この春大学生となったわけですが、大学生という立場は思っていた以上に、おとな、としての振る舞いが求められることが多いです。たとえば教授へのメール、バイトでの接客態度、各種の書類作成。(教授と関わるとき、わたしは学生という立場だからおとなとは少し違うのかな)  わたしはその度にどこか背伸びをしている感覚になります。おとなになりきれていないと反省する日々です。等身大の自分はまだまだこどもで、そこにギャップを感じています。  宣伝美術セクションに所属したいと思ったのは、デザインを仕事にしている母の影響です。母の作品はやわらかくて、それでいてしっかり芯が通っていて、伝えたいことがすっと心に馴染みます。わたしは、そんな母の作品はもちろん、真心をもって表現と向き合う母のことをとても尊敬しています。まさしく母は憧れのおとなです。この4月から上京したわたしに向けて描いてくれたポスターがあるんです。それはあまりにもやさしくって、わたしに寄り添ってくれていました。何度見ても泣きそうになります。  ところで、演劇もデザインも、それを媒介としてなにかを伝える、という目的を持つ点では共通していると考えています。なにを伝えたいか、どう伝えたいか、その方法を考えるのがいちばん苦しくていちばん楽しいから、わたしは表現することを続けているのかな。思えば幼いころから表現することが好きでした。絵を描いてみたり、ごっこ遊びをしてみたり、踊ってみたり、ピアノを弾いてみたり。決定的に夢中になったのは中学生で出会った演劇でした。さまざまな方法で、自分の考えていることをどうにか伝えることに喜びを感じていました。おとなになりかけている今も、その気持ちは変わりません。  そうそう、おとなになりかけている、といえば。わたしは来月には20歳です。まったく実感がわきませんがどうやら法律上はお酒が飲めるようになってしまうらしい。18歳で成人したときはおとなの自覚のようなものは1ミリも芽生えなかったので、20歳こそは、と思っているけどおそらく生まれ変わったような心地になることはないでしょう。地続きです。おとなになりたい。  締め方が全然思いつかないので声に出して言いたい化合物を発表して終わります。ε-カプロラクタム...

遅れちゃいましたね

どうも、22小道具セクション員です。最初で最後の作業場日誌になります。引退ですよ。あっという間ですね。振り返れば執行代以降、なんか妙な立場にいたおかげでいろんな経験ができて、関わらんだろうと思っていた分野の知識もいっぱいつけてもらいました。最近は大学の授業の方でも自分に強制する形で学び始めて、知るうちに初めて面白さに気付いて、ああ、私って無知だったんだな、となる感覚が癖になってきた人間です。  さて、「おとな」についてですね…高校を卒業して、大学生になって、それまでとは質の違う経験を色々するにつれ、おとなになっていく過程では、他の人に大きな影響を与えられるような力がつくもので、その力で誰かを幸せにすることもできるようになるんだけど、それと同時に誰かを傷つけられる力もついてきてしまうものだと分かってきて。しかも自分視点では普通に振舞っているつもりでも、意図なんて無関係に嫌な方向に事が進んでしまうなんていうのは現実的に存在しまくる話で、しかもそれが自分一人では抱えきれないものになってしまって目を逸らしたくなることの方が多くて、だからといってその力を失うことなんてできなくて。だからこそ、(自分のことも他の人のことも守るために、)不本意に他人を抑圧してしまいかねない自分を知ってそれを考慮しながら行動する責任を持つ術を手に入れることがおとなになることなんだなあと思っていたら、(教職取るつもりは全くないのに興味本位で取っている)教職科目で、教師になるにあたってということでそういう類のお話をちょうどされました、ちゃんちゃん。  おとなになるってそういう意味では「演じる」みたいだなと思うのだけれど、子どもが演じるのと違うのは、それをするのが自分だけのためなのではなく、場合によっては自分の欲求まで削って他の人のためにそうし続けるものなんだろうなということで。  そういう観点で見ると、うちの父親がおとなとしてはすごくよくできた人なんですよね。悪いことは見逃さずに叱り、しかも行動改善に至ることを第一に画策しているため仮に見た目では激昂していたとしても奥底には冷静さを残しているし、中立役となるべき時は冷静に中立役に回ることに徹底できる。帰省のたびに車で丸二日かかる行程を一切文句を言わず一人でずっと運転している、仕事その他の愚痴を家族に一切溢さずに、心身ともに健康でいられるために趣味を楽しむ...

もちもちもちもちも

  大人になってもぬいぐるみを手放せていない22衣装です。今も一緒に寝ながらこの文章を書いています。20歳越えさすがに…という目があるのは分かっていますが、私が大きくなるにつれて買うぬいぐるみも大きくなっているので共に成長しているということで許してもらえるそうです。やったね 歳を重ねても趣味嗜好は変わらないなと思います。ぬいぐるみも絵も音楽もお洋服も、小さい頃から大好きなままです。食べ物くらいですかね。以前食べられなかったワサビは、味蕾が死んだので大好きになりました!成長!! 「おしごと調査」の授業でファッションデザイナーについて発表した小学生の私。まだ学生をしていますが、紆余曲折あり、サークルで夢を齧ることが出来ています。 衣装セクションに所属して2年が経ち、ようやく満足のいく製作が出来るようになってきました。夏公演を最後に引退になりますが、細々とでも創作活動を続けていけたらと思います。 ぬいぐるみを目の前に並べて限界作業する夜が続いていますが、見守ってくれるぬい達可愛いすぎるので頑張ります。 ちなみに、最近は推し活の一環でぬいぐるみを持つことが浸透してきたのでぬいぐるみと外出しても変な目で見られなくなりました。嬉し〜

早生まれ

  こんにちは!制作セクションが小道具などを制作するものだと勘違いして入ってしまってから、もう2年近く経ちました。そんな22の制作セクション員が、僭越ながら作業場日誌を書かせていただきます。 テーマが「おとな」ということで、早生まれというタイトルでいきたいと思います。かくいう私は、2月生まれの典型的な早生まれです。今では、たった28日間しかない2月に生まれたということを誇りに思っています! そんな私も、小さい頃は早生まれであることが嫌でした。幼稚園の頃は、全員の誕生日が月ごとに表にまとめられて掲示されており、一番誕生日が遅い私は劣等感のようなものを感じていました。同級生には年齢で負け、一個下の学年の子にもすぐに年齢で並ばれるため、なんだか自分が弱いのではと思うこともありました。小さい頃は早く年齢が大きくならないかな〜と考えるので、当然のことかもしれません。同級生の大半と生まれた西暦が違うのはちょっと嫌ですよね。干支も違えば、体格や運動能力、勉強でも不利になって…… そんな私が、早生まれで良かったと思えるようになったのは、「おとな」になったからなのではないかと考えています。歳をとることがめでたくなくなったということですかね…ちょっと悲しいですが。 早生まれの良いことの一つ目は、浪人や留年が誤魔化せることだと思います。年齢や生まれた年を聞かれても、基本的にはやり過ごすことができます。もし4月や5月生まれだと、周りの同級生よりも2歳も年上という状況ができてしまい、ちょっと焦ります。ですが、早生まれだと生まれた年はほぼ同じだし、感覚としては一個下の4月生まれのようなものです。 二つ目の良いことは、周りに若いマウントを取ることができる点です。私がよくマウントをとっているわけではないですよ。ちょっとだけです。20歳を過ぎてくると、自分はもうこんな歳なのか、と思うことが増えてきます。そんな時に早生まれであることで、同級生に対してまだその歳にはなってないぞ、と安心感を覚えることができます。 と、早生まれの良い点を話してみましたが、ちょっと悲しくなってきました… 早生まれの皆さんは共感できますか? 「おとな」になるっていうのは、歳をとるのが怖くなることなのかな、と勝手に結論づけてみます。早生まれはただの気の紛らわしなのかもしれないですね。 中身の薄い話をここまで読んでくださっ...

豚キムチもよく作る

こんにちは!!!webセクションの22です!こんにちはー!!お久しぶりですー! 初めてwebで作業場日誌書きますワクワク 今回のテーマはなんと……!なんと…!!!!!!!!! 「おとな」!!!!!!!!!!!!!!!です!!!!!!!!!!!!! webセクションが1番最初に公開されるっぽいので大々的に発表してみましたー!汗 私は今21才ですが、最近やっと自分大人かも!と思うようになりました!就活でいろんな大人に囲われてたらオセロ的に自分も大人に感じるようになったんですたぶん…! あとはあとはやはりお酒を飲める事実に大人を感じるかもしれません…!20歳になる前はお酒を楽しく飲む自分を想像できなかったのですが、今は非常に好きです!!おとなです!!!プリズム同期と飲むと大体たくさん歩くことになるので楽しいです(?)好きなおつまみ発表しちゃいますねー!なんと…!なんと…!餃子とソーセージとオイキムチと野菜スティックとネギトロと生ハムとチーカマです!!!!!!!!! あとはですねー、私弟いるんですけども、下に兄弟がいると「自分大人でいなきゃ…」と思う機会結構ありません??共感者求む!別にいなくてもいいけど というか引退ですよーー!!!!びっくりです!!!もうプリズム入って2年経つんですね!!!!!早いですねー。もう大学も卒業です、短かった…!大学生生活! 小屋入り中はロビーの呪縛霊をしていることが多かったわけなのですが、思い返すと色んな人と話せて楽しかったですね!現webチーフとも去年ロビー番で喋ったなーと今思い出してます!ぼんやりとしか覚えていないが、楽しくお話ししたはず!!!!!! それでは!!!自宅では麻婆豆腐とサムギョプサルもどきばかり作っているwebセクション員でした!!!!!!昨日作った舞茸と卵の味噌汁が美味しかったです!作ってみてねーー!!! おかわり無限で茶碗蒸しが食べたいなー! ありがとうございましたー!!!!!!!

ねえ、生きてくのって、きっと、こういうことなんだろうね

タイトルは今回の劇中のセリフからお借りさせてもらいました。 2023 年度 新人公演「透露光過」の作業場日誌のラストバッターを務めさせていただく、舞台セクション員兼演出助手のヒイラギです。作業場日誌で演出助手の話をすることに一抹の「後ろめたさ」を感じながらも、よく考えたら今回のテーマ通りだから大丈夫だろうと開き直っていま文字を紡いでいます。作演ごめんね。たぶん趣旨と違うわ。 現代語における「後ろめたい」の意味は、「やましい、気が咎める」などのようです。(古文における「後ろめたし」の意味は「気がかりだ」だったなあとふと思い出しましたが、蛇足ですね。) 僕という人間にとって、「後ろめたい」感情が芽生えるのは、周囲が当たり前だと思っていることが自分にはできていないんだと気づいた時が多いような気がします。真面目に努力して積み上げていくこととか、朝早くから活動するとか、周囲に気を配りながら発言するとか、とても苦手なタイプなので。もちろん、そうあれるように、そうありたいと思って頑張ってもいますが。そう簡単にはいきませんね。至らないところです。 ただ、その一方で、最近ふと考えることがあります。僕は、自分が想像した「周囲という虚構」が作り出している「当たり前」にとらわれているんじゃないか。ということです。別に陰謀論めいたことを言いたいわけではないですし、すべての「当たり前」が幻想だと声高に叫ぶつもりも毛頭ありません。それでも、人にはどうしようもなく得手不得手があって、それを自ら乗り越えようとすることの価値は尊いですが、それと同等に、自分のこだわりとか考え方とかを自分の強みとして生かしていける型を見つけていくことも大きな価値を持つと僕は信じてみたいんです。 人が当たり前にできることはあんまりできないけど、人が難しいと感じることは少しできるかもしれない自分自身の新たな型への希望と、そう思い込んで現実逃避しているだけなのではという不安を抱えながらも、前を向いて自分なりに演出助手としてこの公演にかかわれたことを座組の皆様に ( 特に、いつまでも設計図を出さなかったのに責めずに大量の作業を僕の代わりにしてくれた舞台監督と舞台チーフの2人に ) 感謝して作業場日誌を終えたいと思います。 P.S. 座組外ですが、相談に乗ってくれた友人の M.T. にもこの場をお借りしてお...

ごめんなさい´

どうも、照明チーフでございます。 今回は照明の担当ということで...小屋入りも間近という今日この頃、我々一同大忙しで楽しくも苦しい日々を過ごしております。 締め切りのラインを大ジャンプで飛び越えながらこれを書いている以上、「後ろめたいこと」といえば当然作業場日誌を出せていないこと、となるのですが、それではあまりにすぐこの日誌が終わってしまいますから今回は別の「後ろめたいこと」について話させていただきます。 そこで取り上げたいのが、既読無視癖です。 あ、あの、一応言い訳させてください。LINEとかslackとかアプリの右上の数字があるのがむずがゆくて仕方ありません。それですべて確認するのですが、すぐには返信できないとか、ちょっと考えたいとか、(普通に見なかったことにしたいとか、)そんないろいろな理由で一度返信せずに見逃してしまうと、もう通知はありませんから、後でしよう...…と思っていた返信もできなくなってしまうんです。 ......たくさん言い訳しましたが、悪いことしてるのもわかってるし、申し訳ないと思ってます。 これ本当にどうすればいいんでしょう。 既読無視の数に応じて罰金とかそういう法律でも作ったほうが良いと思うんですよね。だって既読無視されたらイヤだし......は、ごめんなさい... ほんとに。ごめんなさい。

クローズド

こんにちは、今回は音響が担当します。 私が後ろめたいと思ってることは、SNSで他人とつながろうとしないことです。 ここでの「SNS」はメッセージアプリではなく短文テキストや写真が主要のものを指し、今回はテキスト中心の方を話題にあげようと思います。なんやかんやで6年くらい使っている鍵垢があるのですが、現在までフォロワーは0人から増えたことがありません。折角知り合った人に「つながろうよ~」と言ってもらっても、「ごめん、鍵垢しか持ってないんだよね~…」という断る理由になっているかいまいち分からない言葉で何度やり過ごしてきたことか。そのやり取りが行われたときはいつも相手に申し訳なく、後ろめたく思います。公開垢を別に作れという話かもしれませんが、迂闊に呟くのが躊躇われ放置、のち消去してしまい結局鍵垢のみが手元に残ってしまうのです。 そこで原因を考えてみたときに、愚痴や個人情報、黒歴史などはほとんど書いたことがないのでそういったものを見られるから嫌というわけではないんだと思います。となると、私は自分が投稿した内容が見られるのが嫌というよりは、自分が自由に心の内を吐露できる場に他人が居ることに苦手意識があるのかもしれません。たとえ私の投稿なんか流されてしまって他人の目に入っていなくても、私の声が届く範囲に誰の影も感じたくない。自分ひとりで自己と向き合っていたい。…多分、私はアカウントを交流手段というより日記として使うのが向いているんですね。 そう考えると、先ほどまで後ろめたいと感じていたことは自分の精神の安寧を保つために必要なことであり、別にそこまで気にしなくてもいいんだとなんだか荷が降りたような気がします。 「後ろめたさ」がテーマなのにスッキリして終わって良いものか悩みましたが、他に思いつくこともないので終わりとさせていただきます。 23音響チーフ

ごめんなさい

御機嫌よう。映像です。 今回のテーマは「後ろめたさ」。なんだか重苦しいテーマですが、こういう話は割と好きです。 「後ろめたさ」という感情は「罪悪感」と似ていますよね。どちらも自分の過ちを自覚した時に感じるものですが、後ろめたさは罪悪感よりもソフトなもののように感じます。背徳感は … よく分からないですが、二郎系ラーメンとかを食べると感じるらしいです。まあとにかく、法の範疇で良心が咎めるようなことをしてしまい、そのことに気づいた時、後ろめたさはやって来るのでしょう。 さて、私はこの「後ろめたさ」がかなり苦手です。上手く言語化することは出来ませんが、あえて詩的な表現をするのであれば「じわりと張った根が心臓を絞めつける」ような感覚でしょうか。これに冒されている時は喜怒哀楽が怒(自身に対する怒り)のみになり、何をしても感情が動かなくなってしまいます。何を見ても色あせて見えて、何を食べてもなんか不味いです。こうして書くと呪いみたいですね。自分が自分自身にかける呪い … 。「後ろめたさ」を突き詰めると心を病んでしまうのであながち間違いでは無いのかもしれませんが。 20 年にも満たないこの短い人生の中で、私は幾度となく自らの過ちを自覚してはそれと同じ数の「呪い」を堪能してきました。しかし近年のことを振り返ってみると、その発生件数は年を重ねるごとに少なくなっているようで、純粋に嬉しいです。種明かしをすると、後ろめたさを感じないように超がつく程慎重に生きるようになったからに他なりませんが。 … 何はともあれ、幼い頃の無神経で無遠慮な私はもう何処にもいません。これは喜ばしい成長だと祝福するべきでしょうが、呪いの賜物だと言いたくもなるのは私がまだ成長しきっていないからでしょうか。(「呪い」は「まじない」とも読むことを思い出したので書き残しておきます。) この呪いから解き放たれる方法はざっくり二つあります。一つ、自分の過ちに向き合い素直に謝罪する。二つ、自分の過ちから逃げて開き直る、あるいは忘れる。(三つ、誰かに裁かれる。というのも考えましたが、人によりそうです。)結局のところ後ろめたさは個人の心の持ちよう次第なので、個人で解決するしかありません。どっちを選ぶかは個人の選択に委ねられます。ですが私に言わせると、二つ目を選んで新たな「後ろめたさ」に苦しめられる位なら素直に謝ってみるに越したこ...